第11章 アフリカ諸国の韓人

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 アフリカ諸国には約4000人の韓人が居住する。政府派遣、あるいは個人意志による各分野でのボランティア活動に従事するケースが多く、医療援助や無償経済援助にともなう物的・人的資源の交流が頻繁だ。孤児院を設立した医師夫婦、あるいは無料診療所の開設を夢見る医師もいる。また宣教師やテコンド師範も透徹した使命観とボランティア精神によって大きな成果を上げている。
 宣教師はアフリカを「最後の土地」と考えている。ケニアだけでも全世界から6000人の宣教師が入ってくる。アフリカではキリスト教とイスラム教との布教活動が対立、激化しており、その象徴がケニアだ。キリスト教宣教師らは、ケニアがイスラム化してしまえば、アフリカのほとんどの国がイスラム化するとの危機意識をもっている。そうした宣教師が持参する金品は年間約10億ドルにもなり、ケニアにとっては大きな収入となる。一方、ケニアは宣教師天国のようにも考えられている。その理由の1つは生活費が安いことだ。
 韓人宣教師もそうした隊列に加わり、アフリカでの布教活動を強化し、ケニアでは130人ほどが活動している。韓人宣教師はアフリカ人の生活水準向上開発プログラムに基づいて彼らと生活を共にし、共に考え、共に行動することを励行する。そして学校建設、医療支援、農作業技術を教える奉仕に尽くす。ナイロビ韓人教会では韓人が集い礼拜を上げ、港町のモンバサでは船上礼拝が行なわれる。毎週日曜日、漁船が数10隻、時には数100隻が同時に無電の周波数を合せて交信し、説教の録音テ―プを回して礼拝するのである。
 世界で最も危険な都市はモスクワ、ラゴス、ナイロビの3ヶ所で、その原因は腐敗した権力構造だという。ラゴスはナイジェリアの港湾都市、ナイロビはケニアの首都で、2ヶ所がアフリカの都市だ。植民地支配の後遺症ともいえる。そらにアフリカは言語戦争が行われている所だという。すなわち英語圏の商圏はインド系が握り、フランス語圏の商圏はレバノン系が握り、言語圏と商圏が連結しているために、その言語戦争に生き残ることが肝心なのだ。韓人は英語に強くてフランス語に弱い。
 アフリカの韓人は写真、カツラ、水産等に従事するケースが多い。韓国政府の支援も全くなく、独自の力でアフリカに新しい仕事を植えつけたパイオニアと評することができる。特に1980年代は韓国物品がアフリカを席捲した。現在は韓国製の家電製品と乗用車が人気だが、アフリカではカツラは必需品だ。帽子のように使う場合は2ヶ月、髪を編む習慣がある場合は1ヶ月がカツラの寿命で、いずれにせよカツラは消耗品として扱われ、次々に必要とされる。またアフリカ人はブラックコンプレックスで黒色を嫌う傾向があり、写真現像過程で黒色を調整して褐色に現像する。韓人業者はこの色相処理にすぐれ、これが写真現像業の興隆をもたらした。
 アフリカ現地人は会社の仕事よりも宗教的なものを大事にする傾向があり、勤務中であっても祈祷時間がくると仕事を中断する。これに干渉すると大きな問題に発展する。祭事と産前、産後の休暇も長い。また面前で従業員に指示、注意すると人種差別と認識されるため、1人こっそり呼んで指示や注意をしなければならない。現地人班長がいる場合はすべて彼らを通じて行なうことが肝要だ。
 アフリカ地域で特異な所はモロッコの近海に位置するスペイン領ラスパルマスだ。韓国水産基地として全盛期の1975年当時には35の会社が漁業基地を設置し、7000人以上の漁業労働者が仕事をしていた。その漁業基地ラスパルマスから西アフリカ諸国へ移動する過程で、個人力量を発揮し、逞しく生きている韓人も多い。
 アフリカ諸国も外国人に対する市民権や永住権を許容しないが、現地で誕生した場合に永住権を付与する国もある。アフリカ諸国の中で韓人学校が設立されているのはコートジボアール、ガーナ、ナイジェリア、ガボン、ケニヤの5ヶ国だけだ。以下に、北アフリカ、西アフリカ、東アフリカ、南アフリカの順にアフリカ諸国に生きる韓人の姿を概観してみたい。 アフリカ各地で活躍する韓人医師

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 エジプト(首都カイロ)は韓半島の4.6倍の面積を持つが、95%が砂漠だ。人口約5700万人で、49%が都市に住む。国教はイスラム教で、国民の82%が信仰する。キリスト教は17%が信仰するが、主に古来エジプトに土着しているコプト教徒だ。エジプト人は家族の結束が強く、韓人を「コリ」と呼ぶ。ナイル川中流にあるルクソルは神殿と王家の谷があり、聖地巡礼団や観光客が必ず訪れる観光名所だ。
 エジプトの韓人は約150世帯600人で、公館と貿易関係が50世帯、建設関係が50世帯、自営業が50世帯だ。エジプト人と国際結婚した韓人も5人ほどいる。ほとんどが首都のカイロに居住するが、他にポートサイド、アレクサンドリア、フルガダなどに散在し、飲食・食品業(22人)や繊維業(17人)、旅行業(15人)で生計を立てている。一方、アメリカ人と国際結婚した韓人も20人ほどエジプトに居住するが、彼らのほとんどは教会関係者で、韓人会とは関係なしに活動している。
 エジプトの外国人政策は非常に制限的で、1年ビザを受けるために毎年1回更新しなければならない。帰化制度もなく、学生ビザや観光ビザのみが長期滞在可能なビザだ。しかしこれらのビザでは労働することができず、エジプト政府が発行する労働許可証を必要とする。その労働許可証があれば、6ヶ月あるいは1年の臨時居住ビザが発給される。エジプト人と結婚した外国人には3年ビザを発給する。このような事情からエジプト居住の韓人も定住する意思が弱い。
 また交通事故などに遭遇するとたちまち生活に困窮するという事情から、家族同様に相互扶助の心が篤い。食堂を経営し、エジプト女性と結婚していた韓人が交通事故に遭い、意識不明になったが、幸いにも1ヶ月後に回復した。寄金を募り、治療費、退院後の部屋代、生活費等5ヶ月間面倒を見た。中国国籍を持つ中国朝鮮族の金氏は5人の仲間とナイジェリアに就業したが、政変が生じて流浪民になった。故郷に大きな借財もあり、帰るに帰れず、といって韓国にいくこともできず、そのため見かねた同胞らが、カイロの韓人食堂での働き口を紹介し、何かと手助けした。
 ベトナム戦争に参戦した姜氏は除隊後、イランに移住し、食品納品業で成功したが、イラン革命で丸裸になり、無一文でエジプトに入り、カイロで最初の韓国食堂を開店、時あたかもエジプトの建設ブームが立ち上がり、韓人労働者が1000人以上滞留するようになり、彼らを顧客にする副食供給事業で成功した。また海外開発公社派遣のテコンド師範としてエジプト入りした鄭師範や林師範の道場は、挨拶の仕方や握手の動作など韓国文化を教える伝導所にもなり、道場ではエジプトの国家代表選手も練習に汗を流している。
 1980年に韓人会が設立された。バレーボール等の体育大会を主催する他、会報も発刊している。他に婦人会、留学生会などが活動し、韓国学校には60人が学ぶ。また囲碁同好会、ゴルフ会もあり、食堂自営業者中心のナイル懇親会(会員15人)も組織されている。大使館主催の「コリア・ウィーク」や学術セミナー、韓国伝統舞踊公演、韓国映画会、韓国伝統工芸品展、韓国伝統飲食フェスティバル、それにアンドレ金のファッションショーも開催された。ある韓人教会は図書室を運営し、2000冊の蔵書を備えて韓人らに供し、時には「エジプトを知ろう」というプログラム行事を開催する。また医療奉仕にも積極的だ。特に貧民街でのベビーウォッシュは好評だ。最近は最新設備を完備し、医師20人を擁する総合病院が開院している。

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 リビア(首都トリポリ)は人口544万人で、アラビア語を使用する。社会主義国だが、韓国とは政治、経済、社会、文化の各分野で交流を広め、建設ブームがおきた70年代と80年代中盤には1万人を超える韓人労働者が進出した。1989年に発生したトリポリ空港の大韓航空機爆破事件では32人の韓人労働者が落命し、また1990年に発生した現地での労使紛争で316人の韓人労働者が強制出国させられた。
 東亜建設が参加するリビア大水路工事は2010年完工予定で、20世紀最大の土木工事として注目を浴びている。直径4メートル総延長4000キロメートルの水道管路を砂漠の地下に埋設して、その水を活用し砂漠を緑の草原で改造しようという壮大な計画で「砂漠の緑色革命」と称されている。ちなみにリビアの国土は93%以上が人が生きられない不毛の砂漠である。

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 モロッコ(首都ラバト)は人口2673万人で、アラビア語とベルベル語を使用する。エジプトの伝統文化は博物館の中にあるが、モロッコの伝統文化は日常生活の中にあるといわれる。モロッコは実際に王が統治する王国で、首都ラバト(人口100万人)は宮城そのものの雰囲気が漂い、周辺は王宮軍人が守護している。モロッコ人の習性は、連帯責任、あるいはリーダーシップという概念がなく、あくまでも個人責任、個人中心主義の思考方式だ。自然から生まれて自然へ帰るという人生感覚をかたくなに守る。
 ラバトには約100人の韓人が居住する。多くが王宮と関係する仕事をし、国王も韓人の勤勉さと誠実さを評価しているという。韓人会会長の朴氏は1985年にモロッコにきた。親戚が王宮で仕事をしているのが縁で、フランス人の後釜として王宮迎賓館の管理責任者となった。要員は50人ほどで、主に国賓を接待する。カサブランカの河女史は1973年にモロッコに入り、王宮の室内装飾を担当している。テコンド師範2人も王宮を警護し、看護婦も国王が病気になると看病する。韓人会は1982年に設立された。野遊会、送年会等を開催し、70人ほどが集う。ハングル学校も毎週土曜日、大使館で開催される。教師2人に生徒は9人だ。
 アカディールには34世帯100人、乗船船員150人(うち中国籍韓人10人)が居住するが、水産業に従事する韓人20人が韓人会に登録し、魚類検品業者として繁忙な韓人業者もいる。他は食堂などを経営している。また1994年には日本船(11人)、モロッコ船(4人)、中国船(1人)に乗船する韓人も報告されている。ハングル学校も開設され、主婦と宣教師の教師が11人の生徒を教えている。

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 ラスパルマスはモロッコ近海に位置するスペイン領カナリア群島の中心都市で、人口は約36万人、国際的な遠洋漁業基地として機能している。韓人はこのラスパルマスを「ラス」と呼ぶ。韓人がラスパルマスに本格的に進出したのは1967年からで、韓国水産開発公社所属の第601江華号の入港から始まる。その後、水産会社所属の漁船も相次いで入港、韓国の遠洋漁業前進基地となり、約160隻のトロール船に約7000人が働く場所となり、船員会館も建設され、1974年にはラスパルマス韓国領事館も設置された。また1988年にラバトやカサブランカの留学生10人ほどが留学生会を結成し、1日200ドル程度の通訳仕事に精を出し、勉学に励んだ。 ラスバルマスの韓人商店
 漁業労働者は契約が満期になると帰国したが、中には定住する場合もあり、現地女性と結婚する場合もあった。彼らがラスパルマス韓人社会の母胎となった。また5年以上居住すればスペイン国籍が取得できるということから、国籍を得るために20余人がスペイン外人部隊に入ったが、しかし誰1人として国籍を取得できなかった。中にはそのまま下船して放浪し、スペイン女性と結婚する場合もあった。スペイン政府発行の居住証を受けるためには、雇用主がその人の税金を納入しなければならず、その証明がなければならなかった。そのため居住証は船主の手中に握られているのも同然で、様々なトラブルが発生し、時には無国籍者も発生した。1985年にスペイン大統領がラスパルマスにきた時、大統領に直訴して、下船者集団130人が救済された。
 ラスパルマス基地は「基地長会(船長会)」が中心になって運営され、会報なども発行した。1979年には、4万トン級商船と衝突し、30余人が死亡する事故が発生した。韓国遠洋漁業協会は現地の共同墓地に現地政府の許可を得て慰霊塔を建立した。基地長の中には後に新興船主となって、モロッコとモーリタニアの国境付近で密漁し、モロッコの警備艇が出動すればモーリタニアに逃げ、モーリタニア警備艇が現れればモロッコに避けるという方法だったから、「インターナショナル」と称された。時には銃撃を含むトラブルが発生し、国際問題に発展することも多々ある。
 1980年代に入ると、入漁料、漁況低調、不法操業等の問題で事情に明るい現地居住の人達が漁船を引き受け、経費節減に努める自営船会社が増加するようになった。84年には韓国船主協会を設立したが、イラン・イラク戦争によるオイル危機と乗船忌避、漁況不振、中国朝鮮族船員とスペイン人との摩擦、あるいは韓人船員との摩擦で打撃を受けた。90年代に入ると漁況不振はより深刻になり、20年間近く延べ20万人以上の安息処になった船員会館を処分し、韓国遠洋漁業協会ラスパルマス出張所も閉鎖された。 ラスバルマス・カーニバルの韓人チーム
 ラスパルマスの韓人は約1200名で、水産業以外に舞踊、皮膚管理、テコンド、雑貨、飲食等、多様な職種に従事している。韓人会は「青少年体育大会」や「青少年の夜」を開催し、また50歳以上の集いも持ち、老若和睦と相互協力に努め、会報も発行する。1994年2月22日〜3月9日のラスパルマスカーニバルでは、韓国チームは120余人が行進に参加してソウルオリンピックのマスコット・ホドリを先頭に民族衣裳の提灯行列、婚姻行列、農楽隊、ホラン(虎)タルチュム、そして高さ4.2メートル、幅4.6メートル、長さ14.3メートルの大きな虎を登場させた。沿道は大きな拍手に湧き、見事優勝(参加41チーム)を飾った。1976年に「土曜学校」の名称で韓国学校が開設され、84年に「韓人学校」に改称された。現在10学級234人の生徒を10名の教師が教えている。教育目標は韓人としてのプライドを持ち、在外国民として正しい祖国観を確立することだ。
 イスラム圏では魚を食べず、漁港もなければ水産業という職種もなかった。モロッコでは当初、外国漁船から入漁料だけを受けていたが、利益があがることに目をつけ、外国漁船の入漁を法的に禁止(1979年発効)するとともに、モロッコ船主団を組織して直接、漁獲に乗りだし、アカディールを漁港として開発した。韓人船員はラスパルマスに寄港し、作業をしていたが、次第にアカディール漁港にも寄港するようになり、1980年初めには約1500人が居住するようになった。アカディールの韓人社会はラスパルマスの延長として把握することができる。
 船員は船員手帳を保持し、契約期間が終われば帰国する。陸上滞留者は居住旅券を所持し、延長が可能だ。中には一般旅券や居住旅券で乗船する人達もあり、船員手帳と旅券の区別が曖昧になりつつある。海難事故がおきた場合、船員手帳がないと保険処理が適用されないが、船員手帳は陸上に3日の滞留しか許されず、一般旅券は3ヶ月、居住旅券は1年の滞留が可能だ。スペインの場合、居住期間が3年を過ぎると5年期限の永住権が付与され、5年が過ぎれば国籍取得が可能だ。しかしモロッコの場合は国籍取得が不可能なために滞留資格は不安定だ。アカディール(モロッコ)とラスパルマス(スペイン)の往来は自由で何の制限もないため、アカディールに居住する韓人がラスパルマスでスペイン旅券に変えるケースも多い。これは子女教育のためだという。

TOPに戻る  ◎モーリタニア

 モーリタニア(首都ヌアクショット)は人口233万人で、アラビア語、フルフルデ語、ソニンケ語、ウォロフ語などを使用する。韓国は1979年以来、トラックや医薬品援助などを支援してきたが、1984年漁業協定の締結で、韓人船員が居住しはじめた。ほとんどが漁業前進基地のヌアディビ港に滞留している。ラスパルマスから6〜7人がセネガルへ移住したが、そのうちの2〜3人がモーリタニアに再移住した。

TOPに戻る  ◎セネガル

 セネガル(首都ダカール)は人口は約853万人で、国際機構が多く、多くの人達が国際機構の高位職を受け持ち、国際会議も頻繁だ。フランス語圏に属する。セネガルの韓人は約300人で、長期滞留者が70人、短期滞留者が230人だ。韓国大使館が設置されており、公館員は5世帯ほどだ。漁業基地のラスパルマスから6〜7人が移住したが、3人ほどが残った。韓人にとってセネガルはアメリカへ移住するための臨時地という意識が強く、そこそこの財をなすとアメリカへ移住する。その理由は子女教育だという。韓人会も組織されており、会長はカツラ販売商や漁具輸入商、文具販売商らが努めた。ダカールハングル学校は大使館の協力で冊子を発刊した。
 セネガルは国立警察学校を中心にテコンドが普及し、テコンド人口は約4000人に達する。軍隊あるいは学校でのテコンド部も増加しつつある。彼らを指導するのは韓国から派遣されたテコンド師範で、韓国の国威宣揚に大きく貢献する。

TOPに戻る  ◎シェラレオネ アフリカ各地で活躍する韓人平和維持軍

 シェラレオネ(首都フリータウン)は人口461万人で、英語、クレオール語を使用する。鉱物資源、漁労資源、観光資源に恵まれている。水産業と写真現像業に従事する韓人が居住したが、政変が続き、景気も沈滞して相当数の韓人がセネガルに逃避した。

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 赤道に位置するコートジボアールは1960年フランスから独立した。西アフリカでは唯一政治的に安定し、物資も豊富で、文化施設、通信手段も整備され、日常生活にも不便がない。人口は1473万人で、首都は法律上ヤムスクロだが、事実上はアビジャンだ。フランス語圏に属する。
 民間人初の入国となったテコンド師範の金氏は27年間大統領警護員と警察学校の師範を務め、一般人にもテコンドを教えたが、1995年に帰国した。また政府派遣医師としてコートジボアール入りした安博士は27年間奉仕し、バウレ族とアベ族の名誉族長に推戴された。1984年に韓国のカツラ製造企業が進出して以来、韓人が増加し、87年からは韓人の70%以上が写真現像業に従事するようになった。現在、公館員約30人、韓人約140人が居住している。アビジャンハングル学校は韓人教会の付設校で、32人が学んでいる。アフリカでも名門と評価されるアビジャン大学があるが、大部分の韓人子女はフランスやアメリカに留学する。
 在米同胞が所有するカツラ生産工場は社員200人、臨時社員150人という規模だ。輸出50%、内需50%で、韓人社員は5人、本社はニューヨークにある。コートジボアールの場合、労動法上、3ヶ月以上引続き勤務すれば正式社員にしなければならない。ダカール輸出自由地域工業団地にも韓人のカツラ生産工場が進出している。写真現像業は1986年から始まった。ガボンで食品業に従事していた在米同胞がコートジボアールに入国し、片手間に写真現像業を始めたのである。写真現像業で財をなした韓人はデパートや漁網工場などを興した。

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 ガーナ(首都アクラ)は人口約1690万人で、4つの大部族と70の小部族からなり、最大部族のアカン族は44%を占める。宗教はキリスト教43%、回教12%、土俗宗教38%などで、英語圏に属する。イギリス植民地時代はゴールド・コースト(黄金海岸)と呼ばれていたが、第2次世界大戦後の1957年にアフリカ諸国の先頭を切って独立した。クーデタがしばしば起き、政治的に不安定だが、外国人投資誘致を積極的に推進している。韓国との交流も活発で、1978年に韓国大使館が開設され、韓国からの無償援助、技術訓練、専門家派遣等が積極的に行なわれている。1993年には韓・ガーナ医療協定が締結され、医師が派遣され、医薬品の支援も行なわれている。「韓・ガーナセマウル農場」が設立され、両国政府の支援の下に運営されている。ガーナに進出した企業は水産業と建設業が主だ。
 「韓・ガーナセマウル農場」は1983年に始まり、総面積1300ヘクタールで、農業学校も付設する。稲を中心にトウモロコシ、野菜などを栽培し、養鶏なども行ない、農業機械の作動法も講習している。檀国大学校とガーナ国立大学校が姉妹提携し、農業研修の交流を深めている。設立者の金氏(故人)はもともと水産業に従事していた人で、「韓・ガーナセマウル農場」のほかに貿易会社、建設会社、船舶修理会社、冷凍会社等からなるアフコグループという企業集団を立ちあげ、1000余人の社員(韓人150人含む)を擁し、韓人会長としても長らく活躍した。 ガーナでの韓人囲碁大会
 ガーナ韓人社会の根はラスパルマス漁業基地で働いていた韓人だ。1987年当時、ガーナには132人の韓人が居住し、遠洋漁業従事の船員ら361人が滞留していた。現在は長期滞留者が204人、短期滞留者が358人だ。1978年に韓人会が発足し、韓人は5年期限の一般旅券を所持、その大部分(約30世帯)が漁港のテーマに滞留し、首都アクラに住む人は少ない。韓人社会の懸案問題は、韓人船員の安息処がない、医療施設の不足で健康問題が心配、ハングル学校(生徒約40人)の運営が難しい、などだ。ガーナでの韓人とアフリカ人との混血児は300人ほどと推算されており、彼らの処遇も頭の痛い問題だ。
 ガーナではテコンドが軍事訓練の必修課目に定着し、政府派遣の韓人テコンド師範がガーナの海軍将校、陸軍将校、警察官などを指導している。なかでも郭師範(8段)は士官学校と大統領警護室要員を指導し、『テコンドのすべて』を発刊してテコンドの普及に貢献した。他方、ガーナ韓人教会の信徒数は140人ほどが登録されている。宣教師は農業指導や伝道(教会)、診療(病院)、教育(学校)等を通じて奉仕している。永住権制度がないガーナでは納税実績等によってビザ期限が1年、2年、3年、中には5年の居住許可が交付されるという。韓人で5年期限のビザを所持していたのはアフコグループの金氏とテコンドの郭師範だ。ビザ有効期限が満了になって放浪する韓人もおり、そうした韓人を救済するのは宣教師の役目になっている。

TOPに戻る  ◎ナイジェリア 現地部族の名誉酋長に推戴された韓人医師夫婦

 ナイジェリア(首都アブジャ)は1億391万人、西アフリカ諸国で最大の人口を持つ。英語が公用語で、ハウサ語、ヨルバ語、イボ語などが使用される。石油生産で活況を呈しているが、治安状態はよくない。ナイジェリアには約200人の韓人が居住し、大使館内にハングル学校が設置されていて、12人の生徒を3人の教師が教えている。韓人テコンド師範が軍隊で指導し、国家代表選手を養成している。

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 ガボン(首都リーブルビル)は人口117万人で、フランス語圏だ。1970年頃に韓人医師が派遣され、77年頃にはテコンド師範、自動車整備技術者、自営業者ら5〜6世帯が定住した。80年頃に双竜グループの現地進出で韓人が増加したが、双竜撤収後は写真現像業、理・美容業、貿易会社などで生計を維持し、現在は長期滞留者90人、短期滞留者60人ほどだ。

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 マラウィ(首都リロングウェ)は人口945万人で、英語圏に属する。1970年代初めに政府派遣医師が奉仕した記録がある。75年頃には韓国・共栄建設が国道工事を受注し、50余人の韓人技術者が居住した。現在は16世帯60余人が定住する。食堂、建設、写真現像、自動車修理等に従事する。

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 ベニン(首都ポルトノボ)は人口557万人で、フランス語圏に属する。11人の韓人が滞留し、写真現像業やカバン販売業に従事している。

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 赤道が横切るケニア(首都ナイロビ)は韓国の約6倍の国土に2913万人の人口を持ち、99%がアフリカ系(部族数約43)で、インド系が10万人、アラブ系が5万人、ヨーロッパ系が4万人、その他が8万人だ。英語圏に属するが、一般通用語はスワヒリ語だ。ビクトリア湖を挟んでウガンダ、ルワンダ、タンザニアと国境を接している。14世紀にアラブ系スワヒリ族が定着し、17世紀にはポルトガルの支配を受け、18〜19世紀はオマーン帝国が支配して奴隷貿易を盛業化した。1890年にはイギリスの植民地となったが、数多くの人命を失った激しい独立運動を経て1963年に独立した。しかし、部族間対立で、政治的安定を欠き、経済の最上層部はごく少数の英国系白人が掌握し、上層部をインド系が握っている。 ケニアの原住民と交流する韓人
 ケニアの韓人社会はサファリパークホテルの歴史の一部といっても言い過ぎでない。1962年に英軍将校宿舎を改築したスプレッドイーグルホテルが開業し、67年にサファリパークホテルと名前を変えた。偶然にもケニア大統領側近と懇意になった鄭氏は大統領別荘を借り受けてのカジノの利権を手中にして財を築き、1974年にサファリパークホテルの株式を半分、77年には全部引き受けた。
 以後、鄭氏の意を汲んだ韓人がサファリパークの社長に就任し、そのサファリパーク社長が韓人会会長を自動的に引き受ける形になって、韓人社会の求心点にもなった。それは財政的にも経験的にもサファリパークの社長を凌駕する韓人がいなかったということである。鄭氏は韓人社会には一切顔を出さなかったが、ケニアに居住する韓人のほとんどはサファリパークホテルに勤めた経験を持つ。
 韓人は約500人が居住し、公館・商社員50人、自営業者250人、宣教師200人という内訳だ。自営業者は写真現像、貿易、食品・食堂、カツラ、カバン等の業種が主だ。韓人会は1976年に組織された。4ヶ月以上滞留すれば会員資格があり、会報発行を通じて消息を伝えている。韓人学校や商工人連合会も設立されている。

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 ウガンダのビクトリア湖では生態系の破壊現象がおきている。食糧問題を解決するという理由でヨーロッパ人がナイルパーチという大型魚を放流したからだ。大きいのは2メートルにもなる。この魚のウキブクロは中華料理の食材となり、皮はベルトや靴になり、骨はニカワになるということで、ウガンダに居住する金氏はこの魚を輸出して財をなした。ところが、この魚が他のあらゆる魚を襲って餌にし、そのため生態系に異変をもたらし、湖水が腐りつつあるというのである。

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 悪名高きアパルトヘイトを長らく敢行してきた南アフリカ共和国は韓半島の5.5倍の面積をもち、人口は4174万人で、黒人71%、白人16%、アジア人3%、混血10%が住む。黒人はジュル族(800万人)、ホサ族(250万人)、北ソト族(350万人)、南ソト族(200万人)などが大部族だ。英語圏に属するが、オランダ語に類似するアフリカンス語など11の公用語を認めている。行政首都はプレトリア、立法首都はケープタウン、司法首都はブルームフォンテインだ。宗教は大部分がキリスト教であり、少数のイスラム、ユダヤ教、ヒンズー教、土着宗教がある。
 17世紀中葉オランダの東インド会社がケープタウンに寄港地を設置したのが最初の白人居住だ。18世紀ボオ人とバント族間の衝突が始まり、約100年間続き、バント族が屈服した。ケープタウンをめぐってオランダとイギリスの間に戦闘が起こり、イギリス有利のうちにイギリス人の入植が始まり、オランダ人は内陸部へ押しやられた。オランダ人は内陸部にトランスバール共和国を立てたが、1899年にイギリスは戦争を起こしてトランスバール共和国を併呑し、南アフリカ連邦を樹立した。このように白人はオランダ系60%とイギリス系40%に分かれ、対立してきた。イギリス系は経済界を握り、オランダ系は政界を掌握している。
 アパルトヘイトに反対する黒人暴動がしばしば発生し、国際世論にも抗しきれず、1991年にアバルトヘイトを廃止した。つづいて94年には黒人、白人の自由総選挙が実施され、黒人大統領が誕生した。以前、外国人は永住権を取得するために観光ビザで入国するというケースが多く、1991年までは費用4万ドルほどで永住権を取得することは比較的容易だったが、現在は不法移民に対して厳しい措置を講じ、国外追放される場合もしばしばだ。
 韓国と南アアフリカ共和国との国交は1992年に樹立されたのを機に各分野の交流が拡大している。南アフリカ共和国の韓人は約550人だ。当初は宣教師が多かったが、1990年以後は一般移民が増加し、大部分は商業都市のヨハネスバーグに住み、他はプレトリア、ケープタウン、トバンなどに居住する。履物、写真現像、旅行、ガソリンスタンド、食堂などを営んでいる。1992年にヨハネスバーグ韓人会が組織された。「韓人の日」行事として体育競技(サッカー、テニス、綱引き、駆け足)、バザー会(飲食、生活用品)、送年祭り(ノド自慢、将棋)などが開催される。ハングル学校は韓人教会が運営している。貿易人協会(会員29人)も組織されており、他に遊技場協会、射撃同友会、ゴルフ会、韓・ア親善クラブ等が活動している。
 これら以外の国に散在している韓人は、ナムビア6世帯、レソト9世帯、スワジランド6世帯、マラウィ17世帯、ボツワナ24世帯、ザイール18世帯、ジンバブエ2世帯、ザンビア1世帯、マダガスカル2世帯、モザンビ−ク4世帯、ナイジェリア8世帯という現況で、中央アフリカ共和国には47人が居住していたが、フランス語圏であることと政情不安、インフレが昂進して現在は17人ほどに減少している。その他カメルーンでは医療奉仕の金博士や、ラスパルマスからセネガルを経て入国してきた者も数人おり、中には原住民と結婚して子女に財産も残した者もいる。エチオピアには13世帯の韓人が居住する。大使館員5、政府派遣医師3、国連職員1、世界銀行職員1、コトラ2、テコンド師範1で、海外青年奉仕団の青年も活動している。

第12章 むすび・・・へ続く