むかしむかし

  むかしむかし、今福周辺は一面の内海で、千年以上も昔から,かなり大きな船が往来していました。大正6年、地下5.5メートルの所から楠の大木をくりぬき、2つをつなぎ合わせた構造の丸木船が発見されました。なんと全長13.1メートル、幅2.0メートル、深さ87センチメートルといい、過去に例の無いほど大きな丸木船だということでした。残念ながら大阪城に陳列中に、戦争で消失してしまいました。
 後日談・・丸木船が掘り起こされたとき、工事の人がこの丸木船に座って弁当を食べているとき何やら足に触る物がある。珍しい物だと思って弁当箱に入れて持ち帰ってふたを開けると何も入っていないという。こういうミステリーが続くものだから丸木船を掘り起こした場所にほこらを建ててお祭りしました。

今福西1−14 三郷橋丸木船発見場所のほこら

「今福」の由縁

 鎌倉時代にはすでにこの場所に「村」があったことは栄照寺の古文書に残っているという噂です。近々確認してみます。室町時代、「久岐今福御厨」(くきいまふくみくりや)という荘園の一部がここにあったので、そこから由来すると言われています。
 今福の「今」は新しいこと、「福」は荘園時代の田地、米蔵を意味するそうです。


今福・鴫野の戦

 1614年、大阪冬の陣がありました。徳川側(東軍)と豊臣側(西軍)が寝屋川(旧大和川)を挟んで砦を築いて戦ったと伝えられています。この頃の寝屋川(旧大和川)は、今福と鴫野あたりを中心にいくつもの支流が合流していて、一番広くなっていました。


旧野崎街道跡

 野崎街道は、江戸時代から明治の末期頃まで「野崎観音」へお参りする人たちでにぎわいました。そのころ野崎参りは、寝屋川や今は埋め立てて存在しない鯰江川(なまずえがわ)をさかのぼって観音様まで歩く方法と、天満橋から屋形舟で川をのぼる方法がありました。
 歩き組と船行き組とは何やら言い争いをするのがお決まりだったようで、その争いに勝つとその年の運が決まるというものでした。のどかな「野崎参り」の風景です。
 右の標識は、今福南2丁目今福小学校西南角にある昔船着き場だった所の碑で、ここを中心に食べ物屋、旅籠なんかがひしめきあっていたそうです。旅籠には野崎行きの人よりお参り帰りの人が泊まったそうですが、理由は何だったのでしょう、大坂まで後少しというのに・・・。
 道しるべが皇大神宮内にも残っています。

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