■HOME ■RFNtop page ■Return

 

ミスター高橋 著 『流血の魔術 最強の演技〜すべてのプロレスはショーである』
(講談社 01/12/10発行
)を読む」

 

 また、大変なものを出版したもんだな。ある意味、相当、難しい本だな、これって(苦笑) 実際、何処までが本当なのか、その線引きに苦しむところだが、結局このピーター(高橋氏は新日本プロレス のレフェリー時代は外人番も兼任しており、ピーターの愛称で呼ばれた)本、特に後半なんだけど、金の切れ目が縁の切れ目というニュアンスが多分に感じられる分、説得力に欠けるんだよナァ… 高橋氏が提案していた警備会社のプランが、新日本にボツにされたっていうあたりね。
 それに、暴露本というのはある意味、地下出版じゃないと信憑性がない、というのはある。版元が天下の講談社で、あの発行部数(’02年3月の時点で11万部。これは昨今の出版界の状況を考えれば、異例の大ヒット、ましてやマーケットの狭いプロレスの本なのだから、前代未聞といってもいいと思う)で、という時点で逆に、どうかナァ… と。当然、猪木サンも知ってるだろうし、ある意味プロレス業界って村って表現されるくらい物凄く閉じてるから、出版検閲は絶対あるだろうし… 例えば、昔、WINGにいた松永光弘が出した『ミスター・デンジャー プロレス危険地帯』なんかは版元もドマイナーな長崎出版で、部数も知れてたやろうから、逆に面白かった。
 ただこの件に関して、プロレス村が一様に沈黙を守り、無視を決め込んでいるというのが、また何とも情けない。あのスキャンダル大好きの“週刊ファイト”ですら何のコメントも出していないのだから、やはりこの衝撃はよほどのことであったと考えるべきなのだろうか?
 激しい試合のために、そのヒザは70歳代の老人並みにボロボロと言われる小橋、空中殺法のミスで未だに病院のベッドでリハビリ中のハヤブサ、試合中のダメージが原因で亡くなった福田雅一さん、プラム麻里子さん、先ごろ引退した北斗晶も若手時代には、首の骨を折って死の一歩手前まで行った。彼等には何の言い分もないのだろうか??? その北斗が横浜文化体育館(02/4/7)で2度目の引退試合を無事、終えた際のコメントが「死ぬなよ!」だったのは何と象徴的なことであろうか…

 最後の章は蛇足やが、それでも途中までは滅法、面白くて一気に読んでしまった。けど、これって、昔、あった、元大鳴戸親方の書いた相撲八百長暴露本(’96年 『八百長』 鹿砦社)と論調は全くおんなじなんだな。曰く、“相撲はもはや型の見せ合いに過ぎない伝統芸能である”。でも、ピーター本では、相撲の立会いを引き合いに出して、“相撲はガチガチのセメントや” って、書いてあるしナァ…
 相撲も最初の立会いで、頭とか身体とかがバシーン っと、当たる、あの瞬間は少なくとも真剣勝負でないと迫力が出ないし、あそこに人が挟まれたら間違いなく即死や、て言われてるくらいで、またあれがあるから関取は身体を鍛えて分厚い脂肪で身体を守るわけだし。
 プロレスでも、例えばムーンサルト プレスとか体重120キロくらいの人間が、実に3メートルの高さから落ちてくるワケで、これを受けても大丈夫な身体というのは相当、鍛えておく必要があるわけだ。つまりストーリーがあらかじめ決まっているとは言っても、そこで行われる内容に関しては、逆に真剣勝負でないとかえって危ないだろう。そういう意味ではプロレスって間違いなく命懸けの仕事なんだよ。

 ところで、今、なぜか巷間、プロレス本の出版ラッシュみたいなんだけど、部外者がプロレスを論じる時って、まず、言葉の定義から入らなアカン。例えば、今回のピーター本で最大の争点である“真剣勝負”という表現、あるいは、ケーフェイ=“プロレスに真剣勝負なんて一試合もないですよ”といったかつてのターザン山本(佐山聡『ケーフェイ』 ナユタ出版会 を仕掛けたのが、実はターザン山本であったことは衆知の事実)の発言、等々、プロレス村では一般常識に照らした意味で使われている言葉なんてほとんどないからね。
 真剣勝負じゃない、じゃあ八百長だ、ということは勝敗があらかじめ決まっている、誰でもやれる馴れ合いの勝負だ、ちゅうことはプロレスの技は利かない、だから誰でもやれる という理論の流れには絶対ならないんだな。
 最近、読んだものの中では現代思想で特集した『プロレス』本での、ターザン山本と香山リカの対談が滅法、面白かった。特に、“プロレスには寿命があるのか?” という問いかけは非常に興味深かった。

 プロレスの暴露本としては門茂男の『プロレス365』という偉大な先達があるのだけれど、ここには例えば、“猪木vs.大木”(’74年10月10日 蔵前国技館)の試合で、大木が負けることに承諾していくら支払われたか? といったことまで書かれてる。でも、実際の“猪木vs.大木”は名勝負だったし、第一、最初から大木が負けることが決まっていたとは言え、猪木は大木のフィニッシュ ホールドである原爆頭突きを真正面から15発も、きっちり受け切っているのだぞ。つまり、猪木ほどの受身の達人でなければ、こういった名勝負は演出できなかったということなんだ。
 一説に拠れば、あのPRIDEシリーズの発端となった歴史的な一戦、“ヒクソンvs.高田”の試合は、ヒクソンが負けてくれることになっていたらしいな。ところが、高田のレスラーとしてのポテンシャルがいかに低いか? という証明のような結果になってしまった。高田がヒクソンを仕留める前に、ヒクソンに極められちゃったということなのだ。要はスキだらけだった ってことだね。そこを突かないとヒクソンは本当に八百長に加担したことになっちゃうから、極めざるを得なかったんだろうナァ… 猪木が、“よりによって、一番弱いやつが出て行って負けた”といみじくも語ったその真意は、高田を揶揄することでプロレスを守ろうとしたわけではなく、本当に言辞通り、高田は弱かったちゅうことだったんだ(笑) これは、Uインターで一番強かったのは、安生であるとの別ルートからの有力情報もあって、ほぼ事実と言っていい。
 よく猪木の試合は、五しかない相手の力を八まで引き上げて、十で仕留めると評されたものだけど、それは猪木が受身の達人であり、なおかつ相手のフィニッシュ ホールドよりも強力な必殺ワザをもっていたからこそ可能だったんだ。結局、最近、純プロレスが衰えたのは、こうした試合を組み立てられるだけのキャパシティを持ったレスラーが減っているからだろうな。
 例えば、橋本のようなPRIDEまがいの試合をするレスラーは、破壊王などと自称してはいるが、その実、相手の技に対する受身がぜんぜん出来ないから、攻めまくっているだけなのだ。しかも、攻めまくっているように見えるのは、攻めさせてもらっているからであって、あんなスローなキックやチョップが、例えばPRIDEのような試合で通用するはずがない。だから橋本はプロ格闘技の試合には出なかった、いや出られなかったわけだ。実際、橋本くらい打たれ弱いレスラーも珍しいな。これまでもルールに助けられた試合を何回、見たことかね(笑)
 三沢がよくインタヴューなんかで、“強いヤツじゃなくて、上手いヤツと闘いたい” なんて言ってたのは、そういう事やったんやナァ… と。結局、“上手い”というのは“相手にケガをさせない”“名勝負を演出できる”ということであり、その意味で三沢が橋本と絡みたがらないのは良く分かる。
 小川が実力者と言われながら、PRIDEに出るのをひたすら拒み、断り切れずにグッドリッジとやった試合(契約として残った二試合をこなした藤田が、ニューヒーローになったのだから皮肉なものである。このグッドリッジ戦、小川にとっては一世一代の大勝負であり、逆によく勝てたものだと感心する)や昨年末(’01年)の『猪木祭り』でのK−1との対抗戦で、1億円のギャラを要求し、なおかつケガで負傷欠場中のピーター・アーツを指名して結局、逃げちゃった経緯などを考えると、PRIDEやK−1は本当の真剣勝負をやんなきゃいけないから、なかなかウンと言わない小川も、勝ち負けの決まっているプロレスの試合だとギャラ500万円でもほいほい出るんだな、と実にスッキリ明快に見えてしまう(笑) これは、実際、真剣勝負と八百長の間のギャランティの価格差の上手い線引きになっていて笑える。
 結局、小川って今じゃあ、OH砲とか言ってまるでタッグ専門みたいになっちゃってるけど、本当に楽な方向に行ってる という印象しか受けないね。 考えてみたら、受身の出来ない小川が純プロレスなんて出来るはずがないから〜だってあんなに細い首だと、マジにバック ドロップで投げられたらイチコロじゃんか〜同じスタイルの橋本が相手を勤めたに過ぎないし、プロレスだったら相手に攻められず、攻めさせてもらえるからカッコイイし、楽チンというワケだ。実際、一連の小川の試合では、受けに回った小川 って、ほとんど見た事がないよね。たぶん、相手の選手は、絶対、頭から落とさない様にきつくクギを刺されているんだろうな(笑)

 ま、しかし、ここまでハッキリと言っちゃったのは、後にも先にも初めてだろうけど、いまさらこういう本を出すことの意味もよく分からんな。だから“K−1とかPRIDEに負けてもしゃあないねん” ということなのか? マジソン スクエア ガーデンでのキラー・カーンの“アンドレ足折り”事件のエピソードとか猪木がアンドレ・ザ・ジャイアントをギヴ アップさせた試合の経緯なんかは、逆に凄いナァと感心したくらいでね。
 昨今、真剣勝負の場に出ていったプロレスラーがああも、ころころ負けているようでは、学生プロレスと大同小異でしかないと言われてもしょうがないね。プロレスはたとえ筋書きが決まっていても逆にそれは、真剣勝負の場に出れば、絶対に勝つといった凄みに裏打ちされたものであって欲しい。いわゆるシュート幻想みたいなものね。実際、ある種、ああいう真剣勝負の場というのは失なわれた幻想を取り戻す格好の場だし、実は、真剣勝負になったら、やっぱりメチャクチャ強いプロレスラーという名の格闘家が、うようよいるのがプロレスという世界である、と。少なくとも、力道山、馬場、猪木は間違いなくそういうシュートな部分を持っていたと思うねん。これはルー・テーズも断言してるしね。
 ところがさ、最近じゃあプロレスそのものがある種の暗さや重さやリアリティを手放して、アスリートとかスポーツとか娯楽とか言い出して、それからというもの、かなり危険なワザを使っているはずなのに全体が物凄く軽くなってる。
 ま、ただピーター本を読むと、プロレスにおける何故? という疑問に対してコロンブスの卵的な実に明快な答にたどり着けるような気もするね。
 例えば、’99年の1月4日 “闘強導夢”決戦で、小川と橋本の試合が乱闘に発展した時、長州の言った“それがおまえのやり方か?”という台詞はある意味、謎だったんだけど、“筋書きが決まっているのに、それを簡単に破って、後ろから撃つようなやり方が平気でやれる。そういうのがおまえのやり方か?”と理解すれば実に分かりやすい。
 プロレスが技の掛け合いという部分では明らかに真剣勝負であり、その一方で筋書きや勝負の行方があらかじめ決まっているものだとしても、それは興行あるいは観客論という観点からすれば必要悪的なことであるとは言えるね。
 例えば、 ’59年6月25 日の巨人・阪神戦、天覧試合で村山のボールを長嶋がホームランしたシーンは明らかに共犯関係だったと思う。村山は並の選手では到底打てないが、長嶋だったらもしかしたらホームランに成るかもしれない、超一流の配給をしたのだ。それを長嶋は村山の期待も含めた観客全員の期待に応えて超一流の技術でホームランした。これは明らかに演出された名勝負だと思ってるけど、それは超一流同志の技術があってこその演出だったんだよな(笑) しかもここには実にプロレス的な村山の敗者の美学すらあったわけで、なんとも観客論に富んだ試合だったのだ。
 あるいは、’95年11月場所千秋楽、若乃花・貴乃花の史上初の同部屋・兄弟対決優勝戦があったよね。これもまた、実に見事な共犯関係で、結果は兄 若乃花の勝利だったたけど、観戦した人々はこれが真剣勝負だと思っているにも関わらず、“やっぱりお兄ちゃんには、敵わないんだなぁ” と実に嬉しそうにコメントしていた。あるいは’90年の悼尾を飾る有馬記念で、引退を決めていた公営の雄オグリキャップが見せた劇的なラスト ラン。
 これらの事例は、事象だけを取り出してみると実にプロレス的だと言わざる得ないけれど、しかし同時に、プロレス的に見れば、まだまだレベルは低いんだな。この程度のアングルだったら、プロレスでは日常茶飯事だもの。
 でも、その決められた勝負の行方に、マットを巡るパワー ポリティックスがあまりにも見え見えに反映されてたら、つまらないよね。暮れの新日本プロレス・G1タッグリーグでのテンコジ組の後半の快進撃は、小島聡 残留工作の為の大サーヴィスだったのは明らかだし、プロレスリング−ノアでは、小橋の復帰を待って、ノー フィアーが格下のワイルドU相手にベルトを明渡し、大森は海外遠征、高山はプロ格闘技への進出という二本立ての展開を作ったまでは良かったが、小橋がまたまた欠場ということになってノアは大慌てだし(笑)、全日本で天龍が武藤に三冠ベルトを取られた(取らせた)のは今回の移籍のための伏線に違いないし、実際、昨年の全日本の大きな試合は全部、武藤がメインを勤めたし、移籍が決まったらきっちりベルト、川田に返してるし(タイトルマッチで負けた)、IWGPのチャンピオンは猪木事務所が押さえるようになっているし、猪木は“安田の扱いを間違えないように”なんてクギさしてるし、そういうのって本当にミエミエで、我々ファンの想像の範囲内でのアングルなんだから、まったく面白くないね。昔はもっともっと仕掛けが大きかったし、ワクワクさせられたもんだ。
 今でも、’79年の『夢のオールスター戦』のビデオを見ると妙に泣けるんだな。これは、やはり当時の馬場−猪木という冷戦構造が生んだ本当に夢の一夜であるとの物凄い前提があるからこその感動なわけ。今のように、ナァナァのノリでやっている対抗戦とは次元が違うし、結局、馬場の急逝こそがすべての元凶なんだろうナァ… と。

 ピーター本のもう一つのきっかけは、やっぱあの『ビヨンド ザ マット』なのかナァ… あのマンカインドに関してはワシなんか全部、オリジナルはFMWとかIWAのデスマッチだと思ってるしな。だとすればWWFでインディーズの方法論が採用されたわけで痛快ではあるけどな。あの作品で“あ〜、ここまでだったら、バラしてもいいのか” みたいな線引きが明らかにされちゃった気がするな。
 高橋氏はあれを見て、単純にウワズミだけをすくってエンタテインメントと考えているフシが多分にある。要は試合は、あらかじめお互いに話し合いをして展開を決めておくモンなんだと… しかし、WWFのエンタテインメント プロレスは、それだけじゃ全然ないね。むしろ、そんなことはどうでもいいという… だからピーター本は、WWFを引き合いに出しながら、構造なりノウハウなりをキチンと分かって提案しているわけじゃあないし、いきなり破綻しちゃってる。現実に、今の日本のプロレス環境であれと同じ事が出来るハズが無いんだからさ。

 超一流の受けこそが、プロレス最大の本質だろ。であるなら、このピーター本『流血の魔術 最強の演技〜すべてのプロレスはショーである』をさえも、完璧に受け切ってこそ真のプロレスなんじゃないか?

(02/05/5 談)

 

 

■HOME ■RFNtop page ■Return