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大仁田厚というおのこ

by ラマーズ荻野

 

 ’94年5月5日、川崎球場での天龍との大一番に敗れ、大仁田厚の引退が正式に決まった時点で、筆者は大仁田の戦いぶりを出来るだけたくさん見ておきたいと思った。だから時間的、金銭的、物理的な問題が許す限りいろんなところへ出かけた。猪木さんを追って北朝鮮へ行ったことも含めて、最近、筆者は自分がプロレス ファンで本当によかった としみじみ思うことが多い。それだけ年を取ったということなんだろうか… プロレス ファンじゃなかったら、絶対こんなとこ来てないよ っなんて所にずいぶん行かせてもらった。

 

 大仁田を初めて見たのは’90年の8月頃だったと思う。中牧がサンボ浅子の引退に寄せた原稿をモノにした例の大阪府立体育館第二競技場。あのサウナ風呂のような2階バルコニーから水浴び状態で汗をかきまくり、ウチワをブルブル回転させながら観戦したFMW初の大阪市内での興行、あの汐留レール シティ大会での歴史的な一戦、ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ直後のシリーズであった。ミスター ポーゴが相棒のリッキー・フジと仲間割れしてフジが正式にFMWに入団した日であったが、今となってはとにかく暑かった事と足が痛かったこと位しか覚えていない。

 プロレスを見るのは、新日本プロレスの第3回マジソン スクェア ガーデン シリーズ以来10年ぶりであった。今でも何故わざわざFMWを選んで見に行ったのかよく分からない。筆者はデスマッチについては、いいとか 悪いとか 言う以前にその仕掛けを次々と過激なものにせざるをえない方向性にかなり問題があると思っていた。また実際、大仁田はそうしてしまったし、引退の最大の原因がこうしたデスマッチにあったことは否定できないだろう。

 

 お盆の時、大渋滞に巻き込まれたマイ カーの中で『週刊ファイト』の旗揚げの記事を読んだときも、まぁ半年もてばいい方だろうナ くらいにしか思わなかったし、大仁田と聞いても、全日のさえないジュニア ヘヴィ級のチャンピオンくらいのイメージしかなかった。同時期に新日では佐山タイガーが、ジュニア ヘヴィの大ブームを巻き起こしていて、空飛ぶタイガー・地を這う大仁田 とか言われていた。実際、ジュニアといえば新日! というくらい選手層も充実していて、大仁田がいくらNWAインター ジュニアのチャンピオンとはいっても、ライバルは渕やマイティ井上くらいのもので、すごく見劣りがしたのだ。

 大仁田が不得意な空中殺法にトライして失敗し、ヒザを粉砕骨折して引退すると知った時も、引退試合でマイティ井上のベルトに挑戦し、やっばり勝てなかった時も、プロは厳しいなぁ という感慨くらいしか持てなかった。その大仁田が旗揚げした団体なのだ。半年ももてばいい方だろう と思った筆者の感覚は今でも正しかったと思える。

 

 そんな意味で大仁田FMWは間違いなく奇跡だった。じゃあどうしてこんな奇跡が起こったのだろう? 結局、“テレビや雑誌で見ることのできる大仁田は、誰よりもプロレスを愛し、また誰よりもプロレス ファンを愛したレスラーだった。そして、実際の大仁田もまたマスコミが伝えるままの好人物だった”ということに尽きるのではないだろうか。 

 ’91年の秋、グラン バックというLサイズのメンズ専門店が大仁田をイメージ キャラクターに起用し、プランタンなんばで開店記念に催された大仁田のトーク ショーを見た。もちろん中牧やありとみも一緒だった。

 あまり期待していなかったのだけど大仁田のトークはすごく面白かった。人生相談みたいなこともやったのだけれど、その解答にいちいち大きくうなずいてしまったのを覚えている。旗揚げの時の苦労話、特に“(チケットを買うために)たくさんのファンから送られて来た現金書留の封筒の一つ一つをボクは決して忘れない”と言って涙ぐんだ姿には正直に感動した。ショーの終わりにはサイン色紙をもらい一緒に写真に撮ってもらったけれど、大仁田はその時も一人一人にすごく丁寧に接して、写真撮影の時は肩を組んでくれたりして、中牧もありとみも緊張気味で写真に納まっていた(笑)

 引退ロードの始まった’94年秋。奈良県の橿原市曲川貯木場特設リングでは試合後、控え室となったバスの乗車口で大仁田とファンとのやりとりが延々とくりひろげられた。試合を終えて疲れているだろうに、やっぱり大仁田はこんなファンとのやりとりが本当に好きなんだろう。“終わり、終わり、もう帰るからな”と自分で切り上げて奥へ行く素振りを見せるのに、結局ファンのコールでまた戻ってきてやりとりの続きを始めてしまうのだ。“よし、じゃあ<1・2・3・ダーッ>で締めるぞ、いいな”“1・2・3・ダーッ”“誰だ本とにダーッ て言ってた奴は!ファイヤーだろうが! これだから奈良のファンは嫌われんだよ。しようがねぇなもう一回だけいくぞ! 1・2・3・ファイヤー!” 

 富山県に筆者の知人で熱烈な大仁田ファンであるKご夫妻がいる。”地方の会場ってのんびりしてるから、けっこう簡単に大仁田と一緒に写真を撮ったり、サインをもらったりできるし、おいしいでー。今度、遊びにおいでよ”とかなり熱心に誘われていて、実際、大仁田の引退までに一回くらいはゼヒ行ってみたいと思っていた。そして引退までとうとう2カ月を切ってしまった3月の上旬、ちょうど土日にかけて試合の行われることが決まった。

 特急”雷鳥”に乗っての約2時間半の列車の旅である。途中で駅弁のカニめしを食べたりして旅情をすっかり満喫していた筆者にとっては、この2時間半はまったく苦にならなかった。山にはまだまだ残雪も多く、空気が冷たく透き通っている感じだ。実際、高岡市についてみると、雪がチラホラ降っていた。

 土曜日の試合は高岡市総合体育センターで、日曜日の試合は金沢の石川県産業展示館2号館で行われた。ここはプロレスの巡業ルートとしては結構、重要視されているみたいで、FMWは4月にもう一回来ることが決まっていた。先の参議院選挙で馳浩を国会に送りだした土地柄でもある。

 金沢の試合後でも大仁田は控え室から姿を見せて、金沢のファンとのやりとりを楽しんだ。例によって「1・2・3・ファイヤー!」で締めようとするのだが、大仁田は“みんな元気がねえなぁ”とか“後ろのおばさんのノリが悪い”とか言ってはファンを爆笑させていた。

 土曜の夜、高岡市総合体育センターでの試合を見終わると、Kさんの運転する四駆で大仁田の泊まっているホテルに急行した。待つこと2時間あまり… 3月とはいえ富山の夜はかなり寒い。大仁田とのツー ショットの写真を見てもらえばわかると思うが、大仁田も筆者もものすごい厚着をしている。

 『週刊ファイト3/16号』によると、’93年2月に鹿児島で発病、生死の境をさまよう原因となったヘン桃周囲炎が完治しておらず、大仁田はこの時期、ノドの痛みをしきりに訴えていたという。つまり常時、ドクター ストップのかかっている状態だったのだ。そんな満身ソウイの体で試合をしていたのだが、筆者には金沢でのはしゃぎぶりもあって、そこまで酷かった というイメージを今でも持てずにいる。いったんリングに上がれば観客を納得させるだけの戦いぶりを見せるのが一流レスラーの証明というなら、大仁田はまさに一流中の一流だった。

 しかし、試合内容よりも何よりも筆者を感激させたのは、ホテルにまで押しかけた迷惑千万なファンである筆者たちを、大仁田は決して追い払ったりしなかったことだ。例えコンディションが良くても、試合の後なんてなかなか元気いっぱい というワケにはいかないだろう。それにこの寒さである。付き人の田中はそんな大仁田を気遣って、かばう素振りを見せたが、大仁田は自分から筆者たちに話しかけてくれた。K夫妻は試合後、例のVシャワーを集中的に浴びてズブぬれだった。そして大仁田もK夫妻のことは覚えていて “そうなんだよ 集中的にかけてやったからなぁ”と大笑いした後、“寒いから、気をつけろよな”とモチロンいたわりの言葉も忘れなかった。

 筆者が大仁田のことになるとムキになってしまうのは、その人柄に惚れ込んでいるからだ。マスコミによって作られた虚構でなく、こうして実際に会って話をしてやっぱり本物だったと思えたからだ。

 そんな大仁田の人徳が草の根レベルで全国に広がったからこそFMWの奇跡もあった。大仁田も板東英二や赤井英和のように、もはや大仁田がレスラーであったことすら誰も覚えていないくらいユニークなタレントになって欲しいと思う。大仁田厚の第二の人生にも幸あれと祈らずにはいられない。

 

 

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