森田童子 その同時代性
’93/3/16
TBS系で金曜日の夜、10時から放映中の『高校教師〜禁断の愛と知らずに』の評判がすこぶるいい。筆者の周りにも熱狂的とはいかないまでも、金曜の夜は早めに帰って、何となく見てるという人は結構いる。
「ところが森田童子の死後の世界からささやきかけるような不吉な主題歌にのって始まった『高校教師』。寝っころがって見ていた私は、あまりのタダモノじゃなさに思わず正座してしまった」(小野町子)
ドラマトゥルギーの後退を登場人物の異常な性格設定や複雑な人間関係によって払拭しようとする例は、この『高校教師』に限ったことではないから多くは語るまい。筆者がこのドラマに興味を覚えたのは、この紹介記事の中に登場した森田童子という名前のためである。曰く、”聴いていると自殺したくなる音楽””聴いてはいけないものを聴いてしまった気持ち”等、彼女の音楽に関してなされる論評の多くは、暗いという一点を必要以上に強調したものが多かった。前出の記事も全く同様のトーンで書かれていることは、一読すぐさまお分かりになるだろう。しかし実のところ、ここで言及されている主題歌「ぼくたちの失敗」は小野が言う程、暗い曲ではない。
森田童子。だいたいこの名前を見てすぐさま”もりたどうじ”と読める人が何人いるだろうか。またこの名前を見聴きして男性か?女性か? すぐさま判断出来る人が何人いるだろうか。この疑問はジャケットのヴィジュアルを見た瞬間さらに深刻なものとなる。カーリー ヘアの長髪に覆われサングラスで顔を隠した、正に性差の一切判別できないルックス。その声の弱々しさに、始めてこの人が女性であることが理解される。筆者が彼女の唄を聴いた時、この声にだけははっきり性差が感じとれ、非常に残念に思ったものだ。今回この原稿を書くために久しぶりにLP(!)を引っ張り出して聴いてみたのだが、初めて聴いた時とその印象は全く変わっていなかった。
「’52年生まれと言われる森田は、現役時代から謎めいた歌手だった。学園紛争で高校を中退したらしいが、本名や出身校は不詳。’72年、友人の死をきっかけに歌い始めたという。彼女の歌には、そうしたころの青春、心の内側が、まるで私小説のように、きわめてリアルに描かれている。〜実生活については一切語らなかった。自分のことを常に”ぼく”と呼び、そうすることで、みずからの”性”すらも拒絶しようとしていたかのようだ」(山家誠一)
ブームとは恐ろしい。1月25日に発売されたCDシングル「ぼくたちの失敗」は、1カ月で80万枚を突破。東京・山野楽器では、一時シングルのトップに躍り出た。多くの人々がすでに指摘しているように、森田童子の歌には不思議なデ ジャヴ感覚が存在する。懐かしい感じ、既聴感とでもいったものであろうか、確かに一度聴いたことがあるというイメージがある。
それは、森田の詩が非常に限定された個人的な体験や感情をモチーフにし、社会的な一切の事象から解放されているからである。1stとセカンドを聴く限り、彼女が声高に政治的なメッセージを表明したような歌はない。彼女の歌の多くはその時代、時代に同世代の誰でもが感じるような青春の光と影を、彼女独特の言葉でビーズの首飾りでも作るかのように、ひとつひとつ丁寧に綴っていったものである。そしてそれは社会的事象と無関係であるがゆえに、いかなる時代ともシンクロする普遍性を獲得しえたのだ。というのも男と女の考えることなど、古事記の世の昔から不変であるに違いないからだ。
多くの人々が彼女の歌から感じるものの正体とは、実は自分自身の精神の暗黒面そのものなのだ。ここにおいて、森田の歌は聴く人それぞれに対するそれぞれの鏡となる。人々は森田の歌の中にさらけ出されたあまりにも赤裸々な自分自身の本質に恐れおののくのだ。
もう一つのポイントは、現在のビート先行の音楽シーンにあってメロディ ラインがはっきり立った音楽は希有であること。BPMと呼ばれるパルスが主体となった無味乾燥なダンス ミュージック(筆者にしてみればあんなものは音楽以前だが)が、シーンの中核を担っている事実(これは単なる業界的事情でしかない)とリスナーが求めている音楽体験との隙間から、生の人間が紡ぎ出すシンプルでアコースティックなものが浮上してきたことは極めて必然的な帰結である。ただ、これに乗じて業界全体がこぞって第二次ネオ アコースティック ブームなどと騒ぎ立てて、阿保なことをやらかさないことを祈りたいものである。
(参考文献)
週刊SPA! 2/17号 中森文化新聞「『高校教師』は今一番アヤシイ女子高生ドラマなのだ!!」
アエラ 3/9号“’70年代の残像「幻の歌手"森田童子"が奇跡の復活”
(今週の推薦盤) 森田童子 『マザー スカイ〜君は悲しみの青い空をひとりでとべるか〜』