試論『新世紀エヴァンゲリオン(TV版)に至る病』
1 序
2 『2001年宇宙の旅』を中心にキューブリック作品と『エヴァ』との奇妙な符号性を検証する
a テクノロジーと人間との共棲
b 科学による神の定義/モノリス化するゼーレ
c 進化/人類補完計画〜新宗教の創出
d これで全部、元どおり!〜『時計じかけのオレンジ』との符号性
3 永井豪 コミックス版『デビルマン』との符号性
4 世代論としての『エヴァ』
a 主人公たちのキャラクター分析
b 身近にいる小さなサイコパス〜アダルト チルドレン
’96年に発行された『クイック ジャパン』(太田出版)のVol.9〜10には庵野秀明監督のかなりまとまった量のインタヴューが掲載されている。受け手の側の過剰な思い入れとは全く別の次元で、監督自身による作品解説がなされているのだ。従って作品論としては本来、それ以上は何も必要ないし、筆者としても屋上、屋を架す愚は避けたい。幸いなことに筆者と庵野監督は同世代であり、同じムーヴメントを経験し、インスピレーションを得ている可能性が極めて高い。そこで、筆者は『新世紀エヴァンゲリオン』(以下『エヴァ』)を理解するための新しい知識は出来るだけ仕入れず、すでに持っている知識と感覚で『エヴァ』と向き合ってみようと思う。これは筆者なりの“『新世紀エヴァンゲリオン(TV版)』に至る病”の道程である。
2 『2001年宇宙の旅』を中心にキューブリック作品と『エヴァ』との奇妙な符号性を検証する
スタンリー・キューブリック監督の最も重要な仕事とされるSF3部作すなわち『博士の異常な愛情 または私は如何して心配するのを止めて、水爆を愛するようになったか』(以下『博士の異常な愛情』)『2001年宇宙の旅』(以下『2001年』)『時計じかけのオレンジ』(以下『時計じかけ』)ならびに永井豪のトラウマ的傑作『デビルマン』(TBSで放映されたアニメ版ではなく少年マガジンに連載されていたコミックス版)こそ、『エヴァ』を解明する重要なモチーフであると筆者は考える。
『エヴァ』人気を支える重要なファクターのひとつが、解明されない謎にあることは間違いないだろう。しかし謎という点では、我々30代以上の映画ファンはすでに『2001年』という映画史上最大級の謎に遭遇した経験を持っている。しかも『2001年』の謎が持つ整合性と比較すると、『エヴァ』の提示する謎はそのそれぞれが有機的につながりうまく転がっているとは、とても思えない場当たり的印象が強い。実際、庵野監督自身もこの作品をライヴで制作していたことを認めているほどだ。(ことに論争の焦点となった第弐拾伍話・最終話は完全なあとづけである。)これはデヴィッド・リンチ監督が物語を複雑怪奇にすることに腐心し、様々な要素を盛り込みすぎた結果、監督自身にも収拾がつかなくなってしまった怪作『ツイン ピークス』に近い感触がする。
しかしこの『エヴァ』という作品は、ある意味で正に我々30代以上の映画ファンを代表する庵野監督ならではの『2001年』へのオマージュとも考えられるのである。『2001年』の提示するテーマは、a 人間とテクノロジーとの共棲 b 科学による神の定義 c 進化 d bとcを合理的に包括した新しい価値観(宗教)の創出 であり、また映像的には、e 宇宙空間で起こる出来事を可能な限りリアルに再現すること であった。これらは『エヴァ』の中で、庵野監督流に繰り返し追及されているテーマではないだろうか?
単純にeだけを取り出してみても、『エヴァ』におけるアニメーション表現は実写以上に実写的なリアルさ、すなわちアニメならではのリアルさを持っていたと思う。このあたりはむしろ、現場レベルの人々の方が実感として納得しているだろう。
第弐拾話で碇シンジがエヴァ初号機の中でLCL(このLCLはどう考えても羊水そのものだ)と同化した際に、赤木リツコはかつて同じことが起こったのでデータはあるが、人間の形に戻すのは失敗したという意味のことを言う。それはシンジの母親であるユイの死についての言及に他ならない。エヴァ初号機こそユイそのものなのだ。墓参りに来たシンジにゲンドウはいみじくも言う。“ここには何もない”と。
ロボットのように見える(その装甲が実は暴走防止のための拘束具だったというのは、永井豪の集大成的超大作『バイオレンス ジャック』に登場するスラムキングを彷彿させる)が実は人造人間であるエヴァと人間のように見えるが実はクローンであるレイ(零号機の専属操縦者だから綾波レイ?)は、どちらもユイの魂の入れ物という点で同義である。
初号機とレイ、シンジの奇妙な三角関係、あるいは何故、ゲンドウが初号機にだけ異常な執着を見せるのか? またネルフ本部に到着したばかりで何も知らないシンジが何故、“特別な人間”で“おまえならやれる”のか? 何故、シンジと初号機のシンクロ率は異常に高いのか? 何故、シンジが危機に陥ると都合よくエヴァが起動したり暴走したりするのか? 等々の説明はこれでつく。
エヴァに搭乗しエヴァを操縦することは、テクノロジーとの共棲そのものを意味している。つまりヒトの魂を組み込んだメカ(これは松本零士の『宇宙海賊キャプテン ハーロック』に登場するアルカディア号のメイン コンピューターにハーロックの親友の魂が宿っていることを想起させる。また一見、美女に見えるが解剖学的には野菜と同じ!という敵のエイリアンは、そのまま使徒を連想させる)に、その魂にゆかりのあるパイロットがパーツとして(つまりエントリー プラグ。これも操縦席という印象とは程遠い)搭乗しているのだ。専属操縦者というのはそういう意味だし、彼らがそれぞれに不幸な家庭環境に育っている(つまりエヴァに組み込まれている魂の出どころは…)ことや、14歳という年齢も無関係ではないだろう。
17回目の侵攻にして初めてターミナル ドグマに侵入した使徒/フィフス チルドレン 渚カヲルは、弐号機を操縦しながら、魂さえ入っていなければエヴァと同化できることを証明する。つまり、エヴァを操縦する上でパイロットと組み込まれた魂との適性は重要な問題となるが、魂の入っていない状態のエヴァは構造上、使徒と同じということになる(さらに、カヲルの発言によればレイも同じ)。人類がエヴァをコントロールするためには、ヒトの魂を組み込むという工程が必要不可欠なのである。
『2001年』の木星探査機ディスカヴァリー号がヒトの精子の形をモデルにデザインされていることやエヴァのエントリー プラグ、アンビリカル ケーブルがともに母胎のイメージをひきずっていることも、科学が潜在的に人間の最も根源的な部分をトレースしていることを感じさせる。
例えば、エネルギー補給のためにアンビリカル ケーブルを引きずっているエヴァの姿や『博士の異常な愛情』のタイトル ロールで大型爆撃機B−52が大型輸送機KC−135から空中給油を受けているシーン等々は、“へその緒”を強くイメージさせる。B−52はその後、搭乗員のマヌケな大活躍によって地球滅亡のひきがねを引いてしまうわけだが、こうしたB−52の無邪気な幼児性やエヴァの持つ動物的でむき出しの狂暴性を表現するのに“へその緒”というイメージは非常に有効である。
科学と人間の共棲というテーマで最古のものは、メアリー・シュリーの『フランケンシュタイン』である。思えばこのエヴァという存在は、若き医師ビクトール・フランケンシュタインが創造した名前すらない人造人間そのものといっていい。ビクトールは最後に自らの創造物によって全てを失うが、エヴァ シリーズと創造者の物語の結末は、いまのところ謎である。
この『フランケンシュタイン』の哲学をなぞるように、キューブリックも『2001年』の中では、テクノロジーに対する懐疑を執拗に繰り返している。例えばそれは、人類史上初の殺人が科学(=動物の骨を棍棒として使う)の発展によってもたらされること、電話回線による会話の不自由さ、乗組員の生命維持その他すべてを司っている船内コンピューターHAL9000(このコンピューターのあり方もやはり子宮的である)が誤作動し乗組員を次々と殺害していくエピソード、等々からはっきりうかがえる。科学が人間を凌駕する存在(=神的存在)となり、人間をないがしろにし始めるという図式は、『エヴァ』の中でも使徒を食べてSS機関を取り込もうとする初号機を見た赤木リツコが感じる恐怖、等によって表現されている(第拾九話)。
聖書によると“モーゼの十戒”が記されていたとされるモノリス。『2001年』では超宇宙的存在(科学的に証明された神。高度で複雑に進化した科学は、それ自体が限りなく神に近づく)のメタファーとして象徴的に用いられており、ヒトザルに動物の骨を道具として使うよう啓示を与えたり、科学の発達の度合を計る尺度として月面のクレーターで発見されたり、人類がスター チャイルドに進化するため通り抜けねばならないスター ゲートの入り口になっていたりと、人類の進化過程上、重要なタイミングに現われては、それを促す役割を果たしていた。
『エヴァ』では第弐拾参話のリツコを諮問するシーンで、ゼーレが突如モノリスとまったく同じ姿で登場し思わず“ギョッ!!”とさせられたが(笑)、このゼーレのモノリス化は何を意味しているのだろうか?
一つはゼーレが自らをして神の代理人を任じているというマニフェストだろう。そしてその裏付けとなるのが初号機の存在だ。リツコの発言にあるようにセカンド インパクトの後、人類(ゼーレおよびゲルヒン後のネルフ)は、南極で神様を拾ったがそれが消失してしまったため、神様を再生させるためアダムを造り、それをコピーして零号機を造った。リツコは建造中の零号機命名の由来を、創世記において、神が自分に似せてアダムを造り、エヴァがアダムの肋骨から造られたことに引っかけて説明している。つまりエヴァにかかわるこれらの行為すべてに、神の代理行為という自負があるわけだ。
ところがこのアダム、渚カヲルによって実はリリスであることを看破される。神様の完全なコピーではなかったため、不潔な塵から造り出されたとされるアダムの最初の妻リリスに成ってしまったのだ。この失敗の事実を知っているのはゼーレ、ゲンドウ、ユイ、冬月、リツコら限られた人間だけであったと思われる。葛城ミサトは初号機がコピーであることには感づいていたが、そのオリジナルがリリスだとは知らなかった(汎用人型決戦兵器エヴァ シリーズそれ自体の持つ不完全さは、実はここに由来するのではないか?)。そしてミサト以下ネルフ隊員はおろか、次々に来襲する使徒までもが同じように騙されていたのである。
使徒の目的がネルフのターミナル ドグマに安置されているアダム(実はリリス)と呼ばれる神様のクローン(?)との接触によるサード インパクトの誘発であることは明らかである。しかし、初めてターミナル ドグマに侵入した使徒 渚カヲルは、その目的を果たそうとした瞬間、意外そうにつぶやく。“違う。これはリリス…”。こうしてサード インパクトは未遂に終わるのである。
そして、もう一つはゼーレが推進する“神の見えざる手”人類補完計画。
『2001年』のタイトル バックで轟音を響かせるリヒャルト・シュトラウスの壮大なる交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』。この交響詩はドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの同名著作にインスパイアされたシュトラウスが作曲した希代の名曲だが、まるで『2001年』のサウンドトラックとして作曲されたかのように見事なマッチングを見せる。実際、『2001年』にはオリジナル サウンドトラックとして用意されたスコアが別にあったし、それを使用するよう作曲家のエージェントから警告さえあったらしいが、完成された作品を見る限りキューブリックの判断の方が正しかったと言わざるをえない。
今日、もはや『2001年』のタイトル バックに『ツァラトゥストラはかく語りき』以外の楽曲は考えられないが、それはシーンと楽曲とのマッチングもさることながら、この音楽と映画がまったく同じモチーフから制作された双生児的関係にあることも大きいだろう。
19世紀末、世界はニーチェの目にあまりに矛盾に満ちたものであった。そしてそれらを合理的に説明するため、ニーチェが実存主義(ちなみにこの実存主義を史上初めて提唱したキルケゴールの代表的哲学書こそ『死に至る病』である)のフィールドから打ち出したテーゼは“神(特にキリスト教の)の死亡宣告”。神の創造した世界が矛盾に満ちたものであるならば、その責任は神にとってもらおうというわけだ。こうしてキリスト教の価値観によって構築された世界を廃棄し、それに代わる新しい価値観、新しい人間像を拝火教の神 ツァラトゥストラ=ゾロアスターに仮託して語らせたのが前述の哲学書なのだ。
つまり『2001年』は、このニーチェの哲学書に盛られた内容をキューブリック流にSFの形態を借りて映像化したものであり、科学的に証明された神の概念に基づき、自らを神的存在に高めるための進化過程のプログラミング、そしてそれらを合理的に包括した新しい価値観(宗教)の創出を描いている。
この実存主義において特長的な考え方のひとつに弁証法があるが、これは全く正反対の二つの事象が融合し、さらに別の事象に変化するというモノの見方、考え方の一つで通常、正→反→合という三段の変化によってとらえられる。
ニーチェの超人思想で例示される“らくだが獅子となり、獅子が幼な子となる”という三段の変化は、まさにヒトの神的存在への歩みを弁証法によって論じたもので、これは『2001年』でも“モノリスに触発されたヒトザルが人類になり、人類がスター チャイルド”になるというプロットで描かれている。『2001年』が公開された当初、“木星でスター ゲートを通り抜けたボーマン船長が古いがモダンで清潔感のある部屋にたどり着き、そこであっという間に老化し、死んでしまったと思った瞬間、光輝くスター チャイルドに転生、木星から瞬時に地球に帰還する”という最後のエピソードが、さっぱり意味が分からんと話題になったが、その意図するところは前述の通りである。
さて『エヴァ』における人類補完計画とは、その名の通り使徒との戦いに勝ち残った人類が、使徒に代わって自らを神的存在に高めるためのプログラムなのだと言える。そしてその内容については、第弐拾伍話・最終話で語られた通りである。これは『エヴァ』の物語においてはサイド ストーリーの部分になるが、庵野監督にとってはこの人類補完計画に仮託して描かれる自分探しの旅こそがメイン テーマではなかったか?
d これで全部、元どおり!〜『時計じかけのオレンジ』との符号性
多くの設定で『エヴァ』はロボット アニメの偉大なる先達『機動戦士ガンダム』を踏襲している。主人公と搭乗メカとの出会い、そして自分の意思に関係なく主人公がパイロットになっていく過程、パイロットの年齢がローティーンに集中していること、彼等が従来的な存在ではなく新しいタイプの人類〜ニュータイプ、○×チルドレン〜として認知されていること、等々…
ニュータイプとして目覚めた主人公アムロレイがテレパシーによって危機を脱出し、戦友たちのもとにたどり着いて“僕には帰るところがあるんだ! 待っている仲間がいるんだ!”と強く認識し、自己のアイデンティティを確立する感動的なラスト
シーン。
この『ガンダム』最終話で結実するモチーフは、『エヴァ』の中でも重要なテーマとして、初号機専属操縦者−碇シンジをモデルに、自分探しの旅(内観〜できる限り古いところまで自分の記憶を遡る/例えば、夏の午後? 照り返しのきつい、ガランとした電車に乗っているシンジ、ランニングと半ズボンで泣いている子供のシンジ、等々)、自己の存在意義の確認、そして第弐拾伍話・最終話の人類補完プログラムにおける内省的対話、さらにアイデンティティの発見を経て、“自分はここにいてもいいんだ”という確信にたどり着くまで、何度も繰り返し登場する。シンジを非常に内向的な性格に設定したのは、こうしたテーマを徹底的に追及するための必然であった。
専属操縦者として高いシンクロ率を獲得する条件が、彼等の内面的な葛藤を描くための鍵になっているというのは、いかにも用意周到な感じがする。彼等は早くに母親を失う(この汎用人型決戦兵器にエヴァという女性名が冠せられていることは、エヴァに母親の魂を組み込んでいることの暗諭であろう)不幸な幼年時代を過ごし、それが原因で一様にトラウマを背負っている。そしてこのトラウマは、彼等が自分自身について執拗に自問自答を繰り返す強い動機になっており、しばしば物語の進行を中断させる。
思えばこの『エヴァ』という物語に登場する人々は皆、どこか精神を病んでいる。それは生い立ちの不幸や異常事態(セカンド インパクト、等々)による家族との死別を経験しているためである。そしてこれこそが彼等の性格設定上の重要なポイントになっている。
『時計じかけ』では、暴力衝動や性衝動が起きると嘔吐をもよおすように条件づけ、狂暴な人格を力づくで無理やり押さえつけるルドヴィコ療法が描かれた。
主人公のアレックスは、この療法により人畜無害な人間に矯正されるが、かつて乱暴した人々にことごとく仕返しされ〜つまりヒトは機会さえあれば、誰でも狂暴になりうる〜、反政府運動の道具として利用される。そしてついに彼等の目論見通り自殺を計るが幸か不幸か命を取り止め、今度は政府側がプロパガンダの道具として彼を元通りの凶暴な人格に戻す。アレックスが“これで全部元どおり!”と歓喜の叫びを上げ、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」の“I’m Happy Again”が重なる恐るべきアイロニーで物語は幕を閉じる。
ルドヴィコ療法は薬物を注射し、各種の残酷な映像を延々と見せ続けることで、そうした行為に対する生理的な嫌悪感をパブロフの犬の条件反射の様に刷り込むもので一方、人類補完プログラムは内なる対話によってトラウマの原因を分析し、そこから解放するものである。これらは、被験者の精神的に弱い部分をえぐり出し、それを執拗に反復するところや、ヴァーチャル リアリティ体験を有効に活用している点が類似している。
エヴァの最終話ではステレオ タイプ化した陳腐な学園ラヴコメとしての『新世紀エヴァンゲリオン』がヴァーチャル リアリティで登場し、シンジは自分自身の新しい可能性を自覚することで補完される。すべての登場人物に祝福されるシンジの表情は、これまでの苦悩がウソのように異常に明るい。しかし、このシーンはまるで『時計じかけ』のラスト シーンで凶暴な人格に戻ったアレックスの歓喜の叫びを想起させる。
この『時計じかけ』と前出の『2001年』は未来に対する人類の可能性を描いた作品として、明暗一対としてとらえられるべきものである。人類が新しい神の概念を得てスター チャイルドという段階へ輝かしい進化を遂げるのか? あるいはヒトの汚れた手(『時計じかけ』の場合、政府)によって凶暴な人格への再生を果たすのか? 全く正反対の意味性を持ったラスト シーンを我々はもう一度検証する必要がある。そして『エヴァ』の物語の一方の結末である人類補完計画と主人公たちのその後を。人類補完計画とは果たして人類にとって明なのか? 暗なのか? 今、思えばこの『エヴァ』という作品が、これほど賛否両論渦巻く大反響を巻き起こした直接の原因は第弐拾伍話・最終話にあると言える。何を隠そう筆者もその“物語性の放棄”という点にすこぶる興味を持った。しかし、従来から構築してきた世界観を一気に破綻させるこのコペルニクス的展開こそ正にキューブリック的であり、ある種のカタルシスさえ感じさせるものだ。
この項を終えるに当たって、最後にサウンドトラックでの音楽の使用について若干、指摘しておきたい。
『エヴァ』ではあまり音楽が使用されていない。いや、実際には使用されているのかもしれないが、サウンドトラックとして印象に残るのはクラシックばかりである。これは従来的なアニメの常識とは大きく趣きを異にしているが、実はこれもまたキューブリック作品では慣例的なことなのだ。『時計じかけ』ではベートーヴェン「交響曲第9番ニ短調 合唱付き 作品125」が重要なモチーフとして、様々なアレンジで演奏されていたし(例えばアレックスの自殺の場面に登場するのはその名も「スイサイド スケルツォ」〜第9の第 楽章)、さらに『2001年』ではむしろクラシック サウンドも映像の一部と考える方が自然で、もはや置換不可能なほど融合の度合が高かった。特にここ20年来の作品に関してはオリジナルのスコアを使う方がむしろ珍しいくらいなのだ。
1997年春、公開された劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』〜『使徒、新生』〜の予告編でベートーヴェンの第9がイヤー キャッチ(!)として実に効果的に使われていたのは、周知の通りである。
『エヴァ』のシナリオがゼーレの言ういわゆる死海文書に基づくものなら、この膨大な物語はさしずめ黙示録の中に記されているアーマゲドン(ハルマゲドンという呼称の方が一般的であるが、ここではあえて筆者がこの言葉に初めて出会ったマンガ『デビルマン』の中の呼称を用いたい)に相当すると言えるだろう。
『デビルマン』の第4巻から飛鳥了(実は悪魔神サタン)の台詞を引用したい。“神の意志により、氷の世界にとじこめられし悪魔神サタン。永劫の時をへて氷の世界よりよみがえり、悪魔軍団をひきいて天空より災いをなす! 神の軍団、これをむかえうつ! 地球上のすべての者が 善と悪にわかれて戦う、この戦いを最終戦争(アーマゲドン)という!”
さらに『デビルマン』の第5巻より不動明(デビルマン)と部下との会話から引用する。〜“サタンは天使のようにうつくしいそうだな”“ええ、サタンは堕天使です。神に反逆し天国を追われたそうです。天国を追われたサタンは悪魔を部下にして神と戦争をしたのです。サタンはその戦争にやぶれました。やぶれたサタンは神によって悪魔とともに氷の世界にとじこめられたのす”“そうか… サタンは天使か… デーモン(悪魔)ではなく… 神!”“白く輝く十二まいの翼を持っているそうです”〜
『エヴァ』の84カット、90秒のオープニングには驚くべき量の情報が詰め込まれているが(その多くは宗教的メタファーであり、それがドラマに必要以上の奥行きを与えてしまった)、主題歌「残酷な天使のテーゼ」の歌詞にシンクロするように、初号機が12枚の翼をひろげるシーンを見た時、筆者がとっさに思い浮かべたのがこの会話だった。つまり初号機はエヴァ軍団を率いるサタンであり、神の使いである17の使徒を迎え撃つのである。
この二極対決の図式は黙示録のアーマゲドン、あるいは『デビルマン』における飛鳥了率いる地球の先住人類デーモン軍団と不動明率いるデビルマン軍団の戦いに酷似している。『エヴァ』のメイン ストーリーは、この最終戦争において生き残るのは果たして人類か? 使徒か? その行方を描いているが、その結末は劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』〜『AIR/まごころを、君に』に委譲された。
『デビルマン』との符号性については、かなり多くのメディアが指摘しており、筆者としてもこれ以上の考察は必要ないと判断するため、この項はここで終えることにしたい。
4 世代論としての『エヴァ』
エヴァ初号機専属操縦者・碇シンジは、日本のアニメ史上初と言ってもいい内省的なヒーロー? である。何も考えてない馬鹿丸出しの画一的ヒーロー(殺人を楽しんでいるヒーロー、平和ボケしたヒーロー、いちいち技の名前をエコーのかかった大声で相手に伝える律儀なヒーロー、等々)があまりにも多過ぎたとの反省は当然あるだろう。そして正にこの1点において『新世紀エヴァンゲリオン』はローティーンの圧倒的な共感を得ることになる。実はアメリカン コミックスにはこのテの主人公は結構、多い。その最たるものがマーベル コミックス第3の男 スパイダーマン。その正体は胃潰瘍に苦しむ大学院生(笑)ピーター・パーカーである。
シンジは従来のロボット アニメのヒーローのように、特別な才能や技術があってエヴァに乗っているのではないという設定(つまり高いシンクロ率を達成するためのエヴァ適性の獲得条件は、後天的なものではなく先天的なものであるということ。つまり努力目標ですらない)。そしてそれをシンジ自身が自覚しており、みんなが必要としているのは“エヴァに乗っている碇シンジであって、生身の碇シンジではない”という強迫観念が、自分に対して確たる存在理由=自信を持てない原因を生み出している。また、それは幼い頃に父親に捨てられたというトラウマを引きずっているためでもある。
しかしこれはシンジに限った問題ではない。初登場の際、あれほど自信に満ち高慢この上なかった惣流アスカ・ラングレー嬢もまたその宿命からは逃れられないのである。彼女にもシンジ同様、肉親(彼女の場合は発狂し、首吊り自殺した母親)に捨てられた、あるいは必要とされなかったというトラウマがある。だから他人から必要とされる自分を常に演出しなければならなかった。しかも彼女の場合、常に他人を罵倒し(それが彼女の口癖である「あんた、バカぁ〜!?」)、自分の優位性を確認できないと自分のアイデンティティが保てない程、決定的に屈折している。その意味でシンジより根も深いし、いったん崩壊し始めたら歯止めのきかない怖さがあり、また実際、彼女はそうなってしまった。
その点、綾波レイにはそういった悩みはない。彼女自身が自分の出自についてかなりな部分まで理解しており、自分はエヴァの単なる部品のひとつでしかないこと、あるいはエヴァを操縦すること以外に自分の存在理由はないことを正しく認識しているのだ。彼女の悲劇はその出自において、碇シンジとの関係を避けて通れなかったことであり、彼女の中に自我が芽生えた〜シンジに対して特別な感情を抱く〜瞬間、彼女は三番目にとって代られる(第弐拾参話)。
葛城ミサト、赤木リツコといったサブキャラクターにもこの傾向はあてはまる。彼女たちの場合、ミサトは父親に対して、リツコは母親に対してかなり根の深いエディプス コンプレックスを持っている。ミサトが加持リョウジに抱く感情は、彼女自身が分析しているように、父親の面影を求めるヴァリエーションでしかないし、ネルフでの仕事やゲンドウの愛人であることはリツコの母親への対抗意識でしかない。そしてネルフのスーパー コンピューター マギ システムとリツコとの関係は、エヴァと専属操縦者たちとの関係とぴったり重なる。彼等は、自分が最も必要とされたい相手〜つまり両親に見捨てられたというトラウマを一様に負っているが、それをエヴァやマギ システムによって常に喚起させられているのだ。
現代社会においては精神病予備軍が多い。肉体と精神がシンクロしない“離人症”、心の障害が原因で体調に変動をきたす“心身症”、他者から必要とされていないという脅迫観念につきまとわれる“しがみつき症候群”、問題を極端な方法で一気に解決しようとする“飛び降り症候群”、得られた結果に満足できず、すぐ次の目標設定をしてしまう“摺り減り症候群”等々… こうした症候群については、誰でも一つくらい思い当たるフシがあるに違いない。
例えば、肉体と精神がシンクロしない離人症については、援助交際に熱心な女子高生に顕著だ。自分の肉体を自分で意識できない、つまり自分の在り方を第三者的に客観的に観察している自分が常に存在するのだ。彼女たちは彼女たちの肉体を遠隔操作する自分を感じることはできても、セックスの主体〜当事者としての自分を感じることが出来ないのである。
エヴァの登場人物たちは例外なく、これら症候群のコレクターといえる。この辺りは専門外の領域になるので筆者としてはかなり心許ない。できれば香山リカ女史あたりに、彼等それぞれのカルテを作ってもらいたいくらいだ。
しかし、つまりはそれがローティーンたちの共感を呼ぶ大きな原動力となったのである。ここまでリアルに、等身大の自分たちをそのまま投影できる主人公というのは、今までは皆無だった。こうして分析を進めていくと、ミクロ レベルにまで計算され尽くした設定の緻密さを痛感する。しかも、この作品がライヴで作られていたという事実には、素直に驚嘆せざるをえない。
サイコパスの本を読んでいると、新入社員の誰某を思い出して仕方ない。何かのきっかけさえあれば、誰だって連続殺人犯や大量殺人犯になりかねないな、と真剣に思えて来るのだ。結局、誰が何時そうなってもおかしくないのが現代という世界であって、チャンスがあるか、ないか? だけじゃないのか?とも思う。
こうした現代社会の突出性は、ハレとケが渾然一体となって成立していた近代社会とはかなり異なった印象を抱かせる。近代社会は日常であるケの中に、一時的にハレが挿入されることによって平準化されていたのだ。つまりハレとケは表裏といった両極的な関係ではなく、どちらが欠けても成立しないような相補完的な関係だった。しかし現代社会ではどちらか一方が異常に突出した極端な世界観こそ日常… といった感じがする。日常が有事立法の世界であるエヴァの世界観は、その意味で現代的なシチュエーションを極端に押し進めた結果であるとも言え、興味深い。
神戸で小学生のさらし首事件が起きた時、多くの人々が申し合わせたように『新世紀エヴァンゲリオン』との関連性を指摘した。しかもエヴァを見たことが犯罪の契機になった的意見が、かなり多かったような気がする(あくまでも、そんな気がするだけなのだが)。しかし、それは『エヴァ』を何だかよく分からないアニメとして外側から眺め、不十分な理解のまま推測と雰囲気だけで批評した結果、生じた明らかな誤りである。
登場人物のほとんど全員に今日的な精神障害症候群が散見されるエヴァの世界を経験していれば、あの酒鬼薔薇聖斗でさえエヴァの中に自分の居場所を発見できたかもしれないし、ああいった事件も起こらなかったかもしれない… 筆者にはそんな気さえするのだ。それほどエヴァの世界観は、今日、それぞれの世代が直面するそれぞれの世代とのリアルなディスコミュニケーションを描き切っている。こうした部分での共感(自分たちを理解してくれる人がいる、あるいは自分を投影できるヒーローがいる…)、あるいは違和感(単純にイライラする…)こそが多くのエヴァ体験者をして『エヴァ』を語らずにはいられない衝動を生み出すのだ。
『エヴァ』はその意味で誰もが潜在的に持っているネガティヴな世代論、コミュニケーションに対する徹底的な懐疑あるいは願望を刺激し、引きずり出したのだ。筆者がこのアニメを知る直接の契機となったのは、『エヴァ』に感じる居心地の悪さをほとんど怒りを交えて語る人が、筆者の周辺にやたら多かった(笑) ということに依る。それは結局、彼等の周りの身近な碇シンジに対する怒りだったのだろう。
筆者が新入社員に接する度に思うことは、判断能力における著しい障害である。いわゆる指示待ち世代ということなのだろうが、『エヴァ』の中で登場人物同志がやたらと相手に説教臭い会話を持ちかけるのも、こうした傾向を反映してのことだろう。ローティーンは指示され慣れているし、20代以上の人々はそうしないと彼等が動かない、あるいは動けないことを経験的に知っているから、いきおいそうならざるをえないのだ。しかもタチの悪いことに彼等ローティーンは、非常に楽な処世術の一つとして、そういう立場を装うスベを身につけている。指示されながらも、その実、舌を出しているのである。
筆者たちはまだ少年少女だった頃から、“他人の立場に立つ/他人の痛みを思いやる”ということをイヤというほど繰り返し刷り込まれてきた。筆者は現在の教育の現場をよく知らないが、こうした指示待ち世代は、確かにそれが出来ないからこそ指示を待っているのだ とも言える。だいたい少年犯罪の多くは、他人の立場を理解できない白痴によって引き起こされているということは間違いない。
多くの少年少女が思春期に直面する自己あるいは他己に対する様々な違和感は、別の意味ではアイデンティティへの目覚めと言え、自分自身と他人との距離=関係性を学び始めることを意味する。ミサトやリツコの台詞には、こうした他人との関わりにおける使い古された慣用句、哲学用語(例えばキルケゴールの“ヤマアラシの恋愛”)が多々登場して、物語に奥行きを与えているように見える。
そしてアダルト チルドレン。考えてみると『エヴァ』では◯×チルドレンという言葉が頻繁に使われていた。いわば『エヴァ』はアダルト チルドレンを主人公にしたドラマだったのだ。
子供の頃、親から暴力を振るわれたり十分な愛情を受けずに育った人は、豊かな人間関係を作るのが下手な依存症になりやすい。幼児期に十分な依存状態が確立されていないので、その後の正常な自立へのプロセスが達成されずに、いつまでも何かに依存しようとする傾向が残ってしまうのだ。精神的に未成熟なため、感情表現も下手で他人への愛情の注ぎ方も分からないために、思いやりや愛情の裏付けがないgive and takeで、人間関係を理解しようとする傾向に陥りやすい。要求するばかりで与えることができないのである。また、こうした人々はその反面、孤独を非常に恐がり、不毛な人間関係にすがってストレスを蓄積していく。このような関係を共依存と呼び、物質に対する欲求を人間や人間関係に対する欲求にすり替えた依存関係なのである。こうして満たされない思いは物質に対する欲求=依存という形にベクトルを変える。その意味で『エヴァ』の描き切った世界観はかなり社会批評的であると言えるのだ。
<参考文献>
講談社コミックス 永井豪とダイナミックプロ『デビルマン』全5巻
キネマ旬報社『ザ スタンリー・キューブリック』
ダゲレオ出版『イメージフォーラムNo.95 キューブリック』
KKベストセラーズ 兜木励悟『エヴァンゲリオン研究序説』
香山リカ 講演会(’97/11/29 フェリシモ神戸学校)
週刊メディ・ファイル第3号(’97/11/4)