やさしくして


  





「朔っ」

「!?」

 その瞬間、男は俺の上から飛びのき、ベッドサイドに積まれていた自分の洋服を掴むと、凄まじいスピードで部屋から飛び出していく。

 当然玉置さんが男の逃亡を止めようとしたが、その追跡を軽く振り切る。

 かかったのは時間にしてわずか3秒、忍者並みの素晴らしき身のこなしだった。

「てめえら、何をしてやがる、早く追えっ」

 怒号に気付き、廊下に待機していたお付の男二人が逃げた男の後を慌てて追う。

 ほとんど全裸であったにもかかわらず男の逃げ足は信じられないほど速く、あれよあれよという間に追っ手を引き連れて俺の視界から消えていった。

「朔、おい、朔、しっかりしろっ」

「・・・・・たま・・・き・・・さん?」

「しっかりしろ、もう大丈夫だから」

 俺がされていた事に気付いた玉置さんは、側にあったシーツでまず俺の体を隠し、それから尻に突き刺さっていたものをゆっくりと引き抜いてくれた。

 血の気を失ってぐったりとなっていた俺の体を一度強く抱きしめると、云い含めるように俺の耳元に囁きかける。

「朔、俺のせいで本当にごめん…お前からの電話に俺がすぐに出ていたら、お前をこんな目に遭わせる事もなかっただろうに・・・本当にごめん・・・この仇は俺が必ず取るから」

 客の電話を受けてこの部屋に来たのがおふくろではなく自分で良かったと、心底そう思った。

 俺ではなく俺のおふくろが同じ目に遭わされていたかもしれないと思うと、恐ろしくて体中の血が凍りそうになる。

 年がいってもおふくろは女だし、同じ事をされても受けるショックの度合いが男の俺とは比べ物にならないだろう。

 俺は男だし、こんな事、犬に噛まれたと思ってすぐにでも忘れる。そうだ・・・こんな事、あの男にもう二度と会わなければ、すぐにでも忘れられる。

「傷の具合はどうだ?一応、医者に行くか?」

「やだ・・・」

 親切心から玉置さんはそう云ってくれたが、こんなデリケートな部分、出来る事なら誰にも見せたくない。

 そんな俺の意思を察してくれたのか、力なく首を振る俺に玉置さんはそっと頷いてみせた。

「分かった。俺に任せてくれたら、悪いようにしないから」

「た・・・まき、さ・・・」

「泣くな、朔、男だろ?」

 それから次に意識を取り戻すまでの間、自分がどこで何をしていたのか、俺はよく覚えていない。

 俺を抱きかかえる玉置さんの力強い腕と彼がいつも着ているスーツにしみこんだタバコの匂いだけはぼんやりと記憶にある。

 俺が目覚めたのは、翌日の夕方になってからで、今にも泣きだしそうな顔で俺の側に佇む母親の顔が開けた視界いっぱいに飛び込んでくる。

「朔っ」

「・・・母さん?」

「良かった、良かった、朔・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 ホテルにある仮眠室のベッドの上に、俺は備品のガウンを着て寝かされていた。すぐさま起き上がろうとしたが、傷つけられた体の痛みでうまく起き上がれない。

 連絡を受けてからすぐに戻ってきたという母は、それからずっと俺の側についていたらしい。

「本当に良かった、大した事なくて・・・あんたに何かあったら、私、どうしようかと・・・」

 幸い命に別状はないが、実際死ぬ以上に屈辱的な目に俺は遭わされてしまった。

 そこのところを玉置さんは母に一体どう説明したのか、俺としてはすごく気になる。その事実を知られてしまっているか否かによって、俺は母に対する態度を変えねばなるまい。

 だが、その事を尋ねるべき玉置さんはすでにここにいなかった。

「・・・玉置さんは?」

「私に連絡をくれてから、私と入れ違いにすぐに仕事に行ったわ。あんたの事、あんなに頼んでいたのに、ホント頼り甲斐がないったらありゃしない。あいつ、あんたをこんなにした犯人を取り逃がしたんだって?」

「・・・別に玉置さんのせいじゃないから」

「あいつのせいよ、あんたがこんな目に遭ったのは。一体何のために高いお金を払ってヤクザを雇っていると思っているのよっ」

「母さん」

 きいっとヒステリックな声をあげ喚き散らす母を適当になだめながら、俺は俺をこんな目に遭わせたあの男について考えていた。

 もう二度と顔を見たくないとそう思っていたが、このまま済ますのもなんだか癪なような気もする。

 俺が暴行を受けた部屋は、人手不足のため事後そのままにしてあるとの事だったので、体が動けるようになってから掃除がてらふと覗いてみる。

 血の飛び散ったシーツの中にバイブを探したが、なかなか見つからない。あれだけは誰かに見つかる前に自分で処分しておきたい。

 もしかしたら、玉置さんが俺に代わって先に処分してくれたのかもしれない。そう思って部屋を出ていこうとしたところ、ベッドの下に見覚えのある小さな手帳を見つけた。

「あれ、もしかして、これ・・・」

 小さな革製の手帳は、俺が通っている高校の生徒手帳である。当初、俺はそれを自分のものと決めつけていたが、よくよく考えてみると自分のはいつも着ている制服のポケットにある。

 不思議に思い、表紙をめくってみると、そこには俺ではない別の人間の顔写真が映っていた。

 しかも、その相手の顔は昨日俺の尻にバイブを突っ込んだあの男である。

「ひっ」

 余りの事に動揺して、手にしていた手帳を危うく落としそうになる。

 若い男だと思ってはいたが、まさか俺と同じ学校に通う高校生だったなんて・・・顔を見てすぐに気付かなかったのは、奴が特Aと称されている超優秀クラスの生徒だったからだ。

 同じ学校にある特別Aクラスは、特に学問に優れた人材ばかりを集めた超エリート集団である。当然の事ながら、俺達凡人クラスと奴ら特Aクラスはほとんど接点を持たない。

 それにしても、こいつ・・・超優秀クラスに入れるほど成績優秀でありながら、こんなところに出入りしているなんて、一体何を考えているのだろう。

 特Aクラスだからこそ、人に云えないような鬱憤もたまるのか、それにしたってラブホでバイブはないと思う。

 セックスをするにしても、もっとこう健全な・・・高校生らしいさわやかなエッチは出来ないものなのだろうか。

 まあ、そんな事、他人の俺がとやかく云うのも余計なお世話かもしれないが・・・

 しかしながら、ここでこうして奴の手帳を見つけた事は、俺にとって幸運な事ではなかろうか。

 これをネタに逆に相手に脅しをかける事も出来る。

 俺にあれだけの事をしたんだ、その報復はきちんとさせて貰わねば俺の気が済まない。

「・・・高槻 普(たかつき あまね)?」

いまだひどく疼く尻の痛みに顔を顰めながら、俺は手帳に書かれたその名前を深く自分の胸に刻みこんだ。

 

 

 


 
 明けて翌日、学校に行った俺は早速その人物について聞き込みを開始する。

 何せ学校中に一つしかない特別クラスの生徒である。それでなくても、少し冷たい感じのする端正なあのルックスで、奴は校内においてかなりの有名人だった。

「高槻 普?ああ、あの特Aに所属する氷の貴公子だろ?」

「って、お前も知っているのかよ」

「え、嘘、朔也、お前、学内であんな目立つ有名人を今まで知らなかった訳?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

 いつも俺とつるんでいる怜音(れおん)に呆れられてしまったが、知らないものは知らない。そもそも俺は自分が生きていく事だけに精一杯で他人の事にはとんと興味がない。

 その怜音の情報によると、奴は非凡な人物ばかりが揃う特Aクラスの中でも特に目立つ存在らしい。無駄な事は一切しない合理主義者で、その手腕を持ってわが校の生徒会にも所属している。

 校舎まで分けて特Aクラスの生徒と一般クラスの生徒を隔離しているくせして、不思議な事にわが校の生徒会は一つだけしかない。

 特Aと一般クラス、それぞれ半分ずつ役員を出し合って、それで生徒会を維持している。

 現生徒会会長は俺と同じ一般Aクラスに所属する國枝 雷(くにえだ らい)。高槻はそいつの補佐として副会長を務めているはずだから、國枝に聞けばもっとよく分かるという話だった。

「しっかし、朔、珍しいよな、お前が自分以外の人間に興味を持つなんて。もしかして、高槻に惚れたとか?」

「アホかっ」

 男子校故出てくる笑えない冗談を軽くかわして、俺は早速國枝の元に向かった。

 國枝 雷。俺と同じ一般クラスに所属していながら周りの連中から一線を画したちょっと不思議な奴である。

 一般クラスでも成績は常に上位に位置していて、俺達凡人とは確実に頭の出来が違う。噂では特Aクラスに落ちて仕方なくここにいるらしいが、こいつの雰囲気を見ているとそれも頷ける。

 何というか、自分だけは特別、お前らクズと一緒にするなといった選民的なオーラが半端ない。故に彼には友達がなく、クラスではいつも一人でいた。

 今だって俺が奴の席に近付いていっただけでもう顔を顰めている。俺だって高槻の事がなければこんな奴と口も利きたくはないが、かといって他に高槻の事を気安く聞ける相手もいない。

 不信感を抱かせないよう努めて笑顔で話しかけてみたが、思っていた以上に相手の反応は冷たかった。

「國枝、あの・・・」

「何?俺、今忙しいんだけど」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 忙しいって、俺にはただ普通に本を読んでいるようにしか見えないのだけれど・・・ていうか、こいつにとって俺はこの本以下って訳?

「あのさ、俺、お前に聞きたい事あるんだけど」

「要件があるなら、手短に云ってくれ」

 俺の方をちらりとも見ようとしない、横柄なその物云いにかなりむかっ腹を立てていたが、そこは抑えて俺は奴の名を口にする。その瞬間、國枝の顔色がみるみる変わった。

「お前ってさあ、高槻と親しくしているの?」

「な・・・」

「あいつってさあ、お前には優しい?何かこう変態的な趣味とか――」

「そんなの知るか、馬鹿っ」

「!?」

 何だ、今の反応は?俺、今こいつを怒らせるような事を何か云ったか?俺はただ、こいつと高槻が知り合いだって聞いたから、高槻の事をほんの少しだけ教えてもらおうとしただけなのに。

 なのに、露骨なこの反応・・・やけに高槻の事を意識しているような・・・

 もしかして、こいつと高槻が仲良しだとそう思っているのは俺達だけで、本当はとんでもなく不仲だとか・・・思わずそんな事まで考えてしまった。

「なんだ、本当はそんなに仲良くないんだ、高槻と」

「は?」

「だよな〜、あいつって品行方正な顔をしているけど本当はむちゃくちゃサドだし、あんなのについて行ける訳ないよな。あんな奴、馬に蹴られて死んじえば――って」

 ガツンと一際大きな衝撃を頬に受けた俺の体が後方に大きく吹き飛ぶ。俺がぶつかったせいで背後の机が倒れ、辺りは一種騒然とした状態になった。

 じんじんと激しく疼く頬の痛みが昨夜の尻の痛みを呼び覚ます。いまだ完全に塞がっていない傷口を俺は自然と庇った。

「何するんだよ、いきなりっ」

「それ以上、普の悪口を云うなっ」

 俺達の怒号を聞きつけたやじ馬達が教室内から続々と集まってくる。生徒会長ともあろう優秀な人間が、大衆の面前でクラスメートに手をあげるなんて俺達の間によっぽどの事があったと思っているらしい。

 だが、実際、俺はこいつに高槻の事を尋ねただけで、こいつに殴られなければならないような事をした覚えは全くない。

 まあ確かに高槻の悪口はほんの少しだけ云ったかもしれないが。

「何だよ、何怒っているんだよ。俺が云ったのは本当の事じゃないか」

「本当の事じゃないっ。ていうか、お前に高槻の何が分かるっていうんだよっ」

 普段はマネキンのように取り澄ましている國枝の鬼の如き恐ろしい表情にクラスメートは皆ドン引きである。

 友達をけなされたぐらいでこんなに熱くなるなんて、國枝はそれだけあいつと親しくしているのだろう。

 だったら最初からそう云えばいいものを、それを認めたくない理由が何かあるのだろうか。

「やべ、先公が来たぞっ」

「!?」

 そのタイミングでチャイムが鳴り、集まっていたやじ馬達は次々と自分の席へ戻っていく。

 自分のケツ圧で倒した机を元の位置に戻して、俺も仕方なく自分の席へと向かう。その間も國枝は親の仇でも見るような目でずっと俺の方を睨みつけていた。

「あいつ、まだお前の事見ているぜ」

「レオン」

「お前、よっぽどあいつの腹に据えかねる事をやったとか。それとも、何、二人で高槻の取り合い?」

「はあ?」

「そこ、うるさいっ」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 俺が思わず素っ頓狂な声を出した事で、レオンと雑談が周囲にばれ、教師に叱られてしまう。

 こいつ、どさくさに紛れて何とんでもない事を云うのやら。何でこの俺が國枝と高槻の取り合いをしなくちゃならないんだよ。

 國枝はどうか知らないが、俺があいつに抱く感情は恨みただ一つ。たまたま同じ学校だったから、復讐してやろうという気になっただけで、そうでなければもう二度と会う事もない相手である。

 復讐なんて俺の柄ではないが、相手が同じ学校にいる以上、嫌みの一つでも云ってやりたい。

 すかしたあの面を思い出すだけで、いまだはらわたが煮えくり返るほど腹が立つ。

 トイレで座るたび引き攣れた痛みが走る、わが尻の恨みをこのまま晴らさずにおくべきか。

 しかしながら、さっきの國枝の表情・・・あいつ、よっぽど高槻の事が好きなんだな。

 悪口を云われたぐらいで俺を殴りつけてくるなんて、どんだけ必死なんだ。

 あんな奴とまともに付き合っている事からして、俺にはまず考えられない。

 真面目そうな顔をしているが、もしかして國枝も高槻の同類?

 高槻と同じ変態だとか?

「あ〜、やだ、やだ」

「?」

 よからぬ想像に思わず全身が総毛立つ。

 わが校を代表する生徒会長及びその生徒会執行部役員が、男の尻にバイブを突っ込む変態だったなんて、誰も知りたくない事実であろう。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 依然、國枝はものすごい目つきで俺の事を睨みつけている。

 その視線に込められた奴の熱い思いを、後に俺は嫌というほど思い知らされる羽目となった。