Menuett ―メヌエット―

12




 堀内に借りた自転車のおかげで、園には、何とか6時3分ほど前に到着する事が出来た。

 自転車に跨った俺が門前から中を覗くと、歩は、もうお帰りの支度をしっかりと整えた様子で、保育担任の
先生と一緒に教室の前で立っている。

 余談だが、今現在、歩の年齢のクラスを受け持ってくれている保育の先生は、なんとめずらしく男の先生な
のだ。如何にも学校を出たてといった若い先生で、多分、歳も俺とあまり変わらない位だと思う。初めて担任
を任された最初の頃は、口うるさい一部の親達との間で、いろいろなトラブルもあったらしいが、俺は何も気に
しちゃいない。純粋な若者らしい素敵な笑顔を持つ爽やかな好青年であると――俺はそう思っている。その
先生が、俺にすぐに気づいて軽く手をふってくれた。

「かーたん、来ましたよ」

 年が近いせいか、この先生は俺に対しても、とても親しげな口を聞いてくれる。同じ無類の子供好きという点
では結構気が合うかもしれない。

「すいません、遅くなりました」

 お迎えは5分前までに、そう園の方からいつも固く云い渡されている。自転車を門前に止めながら、俺はす
ぐに謝罪の言葉を口にした。

「いいんですよ。ちゃんと時間に間に合ってもらえれば・・・それよりも、そんなに急いで慌てて来たあなたの方
が事故に遭ってしまいそうで・・・その事の方が僕は心配です」
 
そう云って、俺に優しく微笑みかけてくれる目の前の若者に対して、俺は自分を心底恥ずかしく思った。

「気をつけます・・・」

 面目ない・・・一体、誰の保父さんなのやら。

「かーたんっ」

 嬉しそうに歩が俺の側へと駆け寄ってくる。

「帰ろうか」
「うんっ」

 お世話になりましたと――担任の先生に挨拶をして、俺と歩は園の外へと出た。門を出るなり、歩が門扉の
脇に止めていた堀内の自転車へと走る。

「かーたん、じてんしゃできたの?」
「うん」

 そんな俺の行動が歩にはめずらしいらしい。そう云えば、田舎に居た頃はまだしも、こっちに出てきてから、
俺、まともに自転車になんか乗った事はなかったもんな。あればあるで便利なのだろうが・・・歩が居る以上俺
が乗る自転車もママチャリとなってしまう。俺がいくらジジ臭い男だとは云え、さすがの俺もこの若さであの乗
り物に乗る事にだけはちょっと抵抗がある・・・なんて、こんな事を云いながらも、便利さという誘惑に負けて、
そのうち堂々と乗ってしまっているかもしれないが・・・

 歩は憧れの自転車を見ている。

 本当は歩も自転車に乗りたいんだろうな・・・自転車にというか、ママチャリに母親と一緒に乗りたいんだろう
な・・・そう思うと、胸が少し痛くなった。園にやってくるお母さん方は大概そのスタイルで子供の送り迎えをし
ている。

「あーちゃんも自転車に乗りたい?」
「うんっ」

 単刀直入に俺がそう聞いてやると、子供らしく素直に頷いた。

「でも、この自転車はもっとあーちゃんが大きくなってからでないと乗れないよね」
「・・・うん」

 歩の表情が曇る。でも、こればっかりは仕方が無い事である。俺は愛するあーちゃんのために出来る事なら
何でもしてやりたいとは思うが、俺が母親になって一緒にママチャリに乗るなんてのは絶対に不可能な事だ
し・・・

 そんな歩の表情に気付かないふりをして、俺は自転車を押し進めた。

「行こう、あーちゃん」

 とりあえず、この自転車を堀内に返さねばならない。歩と肩を並べて、元来た道をノロノロと戻り始める。

「かーたん、このじてんしゃ、どうしたの?」

 不思議そうに歩がそう尋ねてきた。

「借りたんだ」
「誰に?」
「友達」
「ふうん」

 俺がそう答えると、歩は何か探るような視線で俺の顔を見上げてくる。

「友達って、前にあーたんのおうちにお泊りした人?」

 おそらく、歩の指している人物は堀内の事であろう。

「そうだよ」

 俺がそう答えてやった瞬間、歩の顔がパアッと明るくなった。

「また、あーちゃんのおうちに来てくれるの?」
「えっ!?」

 どうしてそんな事を聞くのだろう、そう思った俺が、ぼんやりとした顔つきで歩の顔を見つめていると

「先輩っ」

 前方からリュックを片手に抱えた堀内がやってきた。

「間に合いましたか?」
「ああ――」

 俺がまだ返事もし終わらぬうちに、俺の側に居たはずの歩が、いつの間にか堀内の側へと走り寄ってい
た。人見知りのきつい、普段の歩からは全く予期できなかった行動に俺は目を丸くする。

 堀内は笑顔だった。いつも大学で見せている彼独特のポーカーフェイスとは著しくかけ離れた笑顔――無邪
気な少年のように清々しい笑顔――その笑顔の持つ眩しさに俺はつい見惚れてしまっていた。

(何だ・・・あいつ、あんな顔でちゃんと笑えるんだ・・・)

 ただ、その笑顔が向けられている対象は、残念ながらこの俺ではなくて――

「よっ」

 自分の側に寄ってきた歩の頭を、堀内は優しく撫でた。頭を撫でられた歩の方も本当に嬉しそうで・・・

「何だ、お前ら、いつの間にそんなに仲良くなったんだよ」

 内心、俺は面白くない。歩が俺以外の人間を見て、そんな嬉しそうな顔をするなんて…大体、こいつら数日
前にはお互いあんなにも素っ気なかった間柄だったはずなのに・・・たった1回、園まで一緒に通園しただけで
こんなに仲良くなれるものなのか。そんな俺の気持ちは露骨に俺の表情へと表れていたらしい。

「何だ、先輩、妬きもちですか」

 ニヤニヤと笑いながら、からかうように堀内が云う。

「うるせぇっ、余計なお世話だ――そうだ、これ・・・」

 悪態をつきながら、歩道脇に自転車を止めた。

「サンキュー、すごく助かった」

 素直に俺が礼を云うと

「どういたしまして」

 堀内も、あの眩しい笑顔で言葉を返してきた。そんな堀内の笑顔に内心ドキドキしながらも

「じゃあ」

 と俺は歩を連れて自宅へ戻ろうとしたのであるが

「待って、先輩っ」
「?」

 何か忘れている――

「先輩、それで・・・餅つき大会の打ち合わせの方はどうするんですか?」

 半ばあきれたように堀内にそう云われて、俺ははたと思い出した。

「そうだった・・・いつにしよう」

 要は俺の都合の問題なのだ。見たところ、こいつはろくにバイトなんかしていそうにもないし、随分暇そうだ
し・・・

「今からは?」
「ごめん、今日は今からまたバイトなんだ」
「またあ?」

 そんなに驚かれても・・・事実だから仕様がない。生活費を工面するには、藤堂教授のところのアルバイトだ
けではとうてい間に合わず・・・週に3日ほど、俺は駅前の居酒屋でウェイターのアルバイトをしている。午後7
時過ぎから12時までの約5時間、その間、歩は佳奈に面倒を見てもらう事になっているのだ。

「今からバイトって、その間、子供はどうするんですか?」

 一般的に云って、至極当たり前の質問を堀内はしてくる。

「佳奈んち」
「佳奈って・・・草薙先輩のトコですか?」
「そう」

 俺の言葉を聞いて、堀内は暫く考え込むような顔していたが、すぐに俺の顔を見つめて

「よかったら、俺がこいつを預かっておきましょうか?」
「え・・・!?」

 この堀内の発言には俺も心底驚いてしまった。こいつ、いつからこんな子供好きになったんだ?

「いいよ、そんなの・・・急で悪いし・・・」

 元より・・・俺は堀内に歩の面倒を見てもらう気などさらさら無い。それに、こういう場合、俺の方よりも大概歩
の方が先に拒否するのだ。何と云っても、歩の警戒心は一筋縄ではいかないほど頑ななものだし・・・そう思
って歩の方を見ると・・・あろう事か・・・歩は堀内の顔を見つめて、目をウルウルと潤ませながら喜んでいる。
マジ・・・こんな展開・・・まずいって・・・俺は、恐る恐る歩に問う。

「この兄ちゃんと一緒にかーちゃんの事を待っておくか?」

 いいの?と、歩の目がキラキラと輝いている。

「うんっ」

 ――って、一つ返事でOKかよ・・・藤堂教授の時もそうであったが、歩は人一倍警戒心が強いくせに、一度
心を開いてしまうと、どっぷりとその人物に浸かってしまう傾向がある。まあ、俺もそうなんだけどさ・・・しかし
ながら、堀内なんかと歩を一緒にしておいて本当に大丈夫なのだろうか・・・まあ、まさかこいつもこんな幼子
にまで手ぇ出したりはしないだろうが・・・いや、それよりも、今ここで俺が歩の意思を拒否する事を、歩自身が
許してくれそうにもない。この光り輝く笑顔を真っ暗な失望の闇で曇らせるなんて・・・そんな残酷な事、俺に
は出来そうもないし・・・腹を据えて、俺はもう一度、歩に問い質してみた。

「本当にいいんだね」
「うんっ」

 歩は本当に嬉しそうだ。

「じゃあ子供の面倒は俺がしっかりと見ておきますので、先輩は安心してバイトに行ってきてください」

 歩はもうちゃっかりと堀内の横に並んで、その手を握っている。

「ところで、堀内、お前、これからあーちゃんをどこに連れて行って面倒見てくれるつもりなんだ?」

 俺がそう質問すると

「えーと、とりあえずどっかで晩飯食ってから、それから俺の下宿にでも連れて行こうかと思っていたんですけ
ど・・・」
「だったら、俺んちで待っているか?」

 自分でも大胆な発言だと思う。つい先日俺を襲った強姦魔を、まだその舌の根も乾かぬうちに、自分の方か
ら自宅へと誘っているのだ。でも、それは本当に事の成り行き上、どうしても仕方がないことであって・・・合理
的に考えれば、その方が俺にとって非常に都合が良いからである。

 逆に、堀内の方が、俺の言葉を聞いて面食らってしまっている。

「・・・本当に良いんですか?先輩・・・」
「良いも、悪いも・・・だってお前んち馬前町だろ?眠っている歩を迎えに行く距離としては随分あるし・・・それ
のその方が俺の手間も省けるし・・・ただし――」

 ここからが肝心なのだ。俺は、さり気なく堀内の側に体を寄せて、そっと耳打ちした。

「もう二度と、俺にあんなふざけた真似はしないって誓ってくれたらな」

 奴の耳元で俺が囁いた瞬間、堀内の顔が無様に歪んだ。こんな顔をするところを見ると、こいつでも一応反
省はしているようだ。耳を澄ませていないと聞き取れないほどの小さな声で、堀内は呟いた。

「もう・・・二度としませんよ・・・あんな事は・・・悪かったと思っています・・・」

 そう謝罪した堀内の顔の方が、むしろ、俺よりも傷ついているように見える。何でだ?何でそんなつらそうな
顔をしているのだろう・・・強姦なんて非情な手段を用いて俺の体を散々弄んでおいて・・・あの時、お前はさぞ
いい思いをしたんじゃなかったのか?

 そう思いっきりなじってやりたかったが、じっと耐えて、ここは言葉を飲み込んでおいた。

「じゃあ、先輩の言葉に甘えて・・・そうさせていただきます」

 殊勝な態度でそう承知した堀内に俺は自宅の鍵を渡した。

「よろしく頼むな。あーちゃんは夜9時には絶対に寝かせるようにしてくれよ」
「はい」

 堀内は自分の自転車のサドルに歩を乗せると、自分はハンドルを持ってその自転車を押しながら、ゆっくり
と俺の自宅へと向かっていった。

 その後姿を見ながら・・・俺はぼんやりと考えていた。

(本当に・・・これでよかったのだろうか・・・)

 自分の心の中で、俺はまだ堀内という男の本質を、何一つ理解できていないというのに・・・あいつがどんな
人間で、一体どんな暮らしをしているのか――歩という小さな存在に対して、あいつは俺が思っていたよりも
ずっと優しくて思いやりがある人間だと云う事は分かったのであるが・・・だが、あの件に関して、俺は決して
堀内を許した訳ではない。どうして、俺に対して、いきなりあんな卑劣な行為をはたらいたのか・・・その本当
の理由をあいつ自身の口から直接聞きだすまで、俺は自分の範疇にあいつを入れるべきではなかったので
はないだろうか・・・

 まあ、今更何を云っても遅いのであるが・・・

 でも、自分でも本当に不思議だと思う。あんな事をされたというのに、俺は極めてまともに堀内と付き合って
いる。堀内の事を過剰に意識してはいるものの、側に近寄っても、他の男達に感じるような嫌悪感は全く芽生
えてこない。男に対する過剰な恐怖心を俺に植え付けたのは他ならぬ堀内にはずなのに・・・

 ・・・どうして・・・?

 自分でも納得がいかない・・・こんな理不尽な事・・・

 それでも・・・俺は堀内を完全に信用している訳ではない。とりあえず、俺は今の自分に出来うるだけの自衛
策をとることにした。

 Gパンの後ろポケットから無造作に取り出した携帯で、佳奈の下宿先へと電話をかける。

 数回の着信音――少しして

『はい・・・?』

「佳奈?俺――」

『翔!?あんた今日はまた随分とゆっくりなんじゃない?こんな時間になっても、まだあーちゃんの事をウチに
連れてこないで・・・バイト間に合うの?』

「え?あ、うん・・・その・・・今日はいいんだ」

『いいって・・・もしかしてバイト休み?』

「いや、そうじゃなくって・・・堀内があーちゃんの事を見ていてくれるって・・・」

『堀内って・・・あんたあれからちゃんとあの件に関して堀内と話し合ったの?』

「いや・・・それは、まだ・・・」

『あきれた』

 俺の言葉に対して、どうやら佳奈は本当にあきれ返っているらしい。軽い溜息が小さな器械越しに聞こえ
た。

『で、あたしはもう用済みって訳ね』

「待てよ、頼みがあるんだ」

 俺は汗ばんだ手で携帯を握りなおす。

『頼み?何?』

 佳奈は思いっきり不機嫌そうな声をしている。

「いや・・・その・・ちょっとさ・・・心配だから、後であの2人の事さり気なく見てきて欲しいんだ。一応大丈夫だ
とは思うんだけどさ・・・一応ね・・・」

 遠慮がちに俺がそう云うと、佳奈はまた溜息を一つついた。それから、常日頃から俺に対して抱いている自
身の感情全てを詰め込んだような不快な声で感慨深く呟く。

『・・・あんた・・・本当に馬鹿ねぇ』

 そんな事、今更改めて云われなくたって自分でも充分に分かっているよっ。

『心配するくらいなら、初めから任せなきゃいいのに』

 うっ・・・悔しいけど佳奈の云うとおりだと思う。でも、一応俺の云い分も聞いてくれっ。

「だって・・・あーちゃんが・・・」

 俺がそう云いかけると、佳奈はひどく素っ頓狂な声を出した。

『何、懐いちゃったの?』

 声の調子から心底驚いているのが分かる。まあ、俺だってちょっとびっくりだったもんな・・・あの人一倍人見
知りのきつい歩が、たった一日一緒に保育園に行っただけの堀内にあんなに懐いてしまうなんて…

『やるわねぇ〜、堀内。ほら、昔から云うじゃん。将を射んと欲さば先ず馬ってね』

 何云ってやがるんだ、この女は・・・誰が馬なんだよっ。しかし、今ここで佳奈とそんな事を論じている場合で
はない。

「時間ないから、切るぜ電話、もし余裕あったら、ちょっとだけでも覗きに行ってくれよ」

『えーーーっ』

 不満たらたらといった感じではあるが、十中八九、佳奈は行ってくれるだろうと俺は確信している。

「じゃあ、よろしく」

 急いで通話を終えると、俺はその足で真っ直ぐにバイト先へと向かった。

だらだらと・・・頑張っています〜(笑)


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