2008年度 GW特別企画

花待ち人





 男女雇用機会均等法が叫ばれているこのご時勢において、いまだ年功序列型の縦社会が根強く残っている我が社では、毎年恒例の社内行事である花見の席取りは、入社3年未満の若手社員の仕事と決められていた。

 会社を挙げての大行事となるその席には、平素滅多に平社員と触れ合う事のない社長を始め、重役の面々達も出てきて、上下入り乱れての飲めや歌えやの大宴会となる。

 この日ばかりは無礼講と、日々の鬱憤を晴らせる花見の宴であるが、世話役となる新入社員は、毎年、その下準備に泣かされてきた。

 都内にある某公園の桜林での場所取りから、料理や飲み物の手配、果てはカラオケセットの用意まで、世話役となった社員は、それら全てを抜かりなく行う必要がある。

 花見の幹事に任命されるのは、通常、入社2年目の社員と決められていたが、不況のあおりを食って、新入社員を一人も入社させられなかった本年度も、不幸な事に、またもやその役が、この俺に回ってきてしまったのだ。

「よろこべ、修(おさむ)、今年の宴会部長、またお前に決まったぞ」

「ええ〜っ」

 同期の友人から、その報を受けた俺は、一瞬にしてブルーな気分になった。

 大体、入社3年目の社員は俺だけでなく、俺にこの知らせを持ってきたこいつを始め、多数いるはずなのに、何故この俺だけが、こんな難儀な役を2年も続けて引き受けなければならないのか。

 その事を、直属の上司に泣いて訴えようかとも思ったが、後の出世に響きそうなのでやめた。

 ここで、俺がはっきりとノーと云えない人間である事を、上はとっくに見越していたのかもしれない。

 そんなこんなで、2年連続で、この大役を仰せつかった俺だが・・・

 

 

 

 

 

「きれ〜い、やっぱ、桜は夜桜に限るよね」

「ホント、こんなに幻想的な桜を肴に酒が飲めるなんて、最高に気分いいじゃん」

 花見の宴席として、最高のロケーションとなるこの場所を勝ち取る為、俺は昨日の夕方から、ずっとこの場所に張り込んでいた。昨晩はこの場所に寝袋持ち込み、星空を見つめながら眠りについた。花見当日となる今日は、前から有給をとって、トイレ以外はほとんど動かず、ずっとこの場所を守っていた。

 俺がそこまでこだわった宴の場所に、文句を云う社員は一人もいない。

 宴席を心から楽しむみんなの満ち足りた顔を見ていると、俺も少しは報われたかなと思う。

「おい、修、何やっているんだよ。お前も、こっちに来て、俺達と一緒に飲めよ」

「いや、俺はいいよ。あとで酔っ払いの介抱をしなくちゃならないから。俺の事はいいから、お前らは十分楽しんでいけよ」

「云われなくても、十分に楽しんでいるさ」

 うおお〜っと雄叫びを上げながら、酒を回し飲みしている同期の連中の輪に、出来れば俺も加わりたかっのだが、元々俺はそんなに酒が強くない。

 酒自体は結構好きなのであるが、悲しいかな、肝臓のアルコール分解機能がそんなに発達していない俺は、コップ一杯の冷酒を飲んだだけで、すぐ真っ赤になってしまう。

 昨年はそれでひどい目に遭ったから、幹事をする以上、今年は一滴の酒も口にするまいと、そう固く自分に誓ったのだ。

 衛生風紀上、乱れた事はしていないか、見回りの傍ら、宴席の到る場所に目を光らせていた俺の目に、ある一人の人物の姿が映った。

 公園内でも一際美しく咲き誇っていた桜の大木を中心に、大型のブルーシートを数枚並べて敷き詰めた場所が、この花見における我が社の陣地である。

 その場所のあちこちに宴席の輪が出来ていたが、その青年は、そのどれにも加わらず、見事に咲いた桜を見上げ、一人で酒を嗜んでいた。

 あれ? あんな奴、うちの社内にいたっけ?

 ここで酒を飲んでいる以上、ウチの社員に違いはないのだろうが、俺は、その男の顔を今日初めて見た。

 入社3年目にして、百名からいる社員の顔を一人一人記憶しているはずもないが、その男の顔には全く見覚えがない。

「あの・・・」

「!?」

 近づいて声をかけた男のスーツの襟元には、俺と同じ銀色の社章が光っていた。

 これを付けているからには、彼も俺と同じ我が社の社員という事になるが、一体、どの課に所属しているのだろう?

 彼のような社員は、悪い意味ではなく、女性達の間で評判になっているようにも思う。

「お一人ですか?」

「ええ、まあ・・・」

「仲間とワイワイ飲まずに、お一人でしんみりと飲まれるのが好きなのですか?」

「うん、まあ、そうかな」

 俺のいきなりの不躾な質問に、彼は戸惑った表情を見せた。

 周りの喧騒など全く介さず、ライトアップされた夜桜を熱心に見つめる彼の目は、多くの憂いを含んでいて、どこか儚げにさえ見える。

 このまま、声をかけずいると、いつの間にか跡形もなく消えてしまいそうな、そんな儚げな印象を俺に与えていた。

 男でありながら、何故か一人では放っておけない、つい声をかけずにはいられなかったその男の側に、俺はそっと腰を下ろした。

 それから、その男に倣って、俺も黙って桜を見つめていた。

 さわさわと辺りに風が吹き、揺れた桜の枝先から、花びらが吹雪となって辺りに舞い降りてくる。その一枚が、男の頭頂に留まった。

 物憂げな瞳で桜を見つめる彼は、その事に全く気付いていない。

「あの」

「?」

「桜の花びらが頭に」

 俺がそう云うと、彼は頭に手をやって、それを払い除けようとする。

「ああ」

 その仕草が、あまりにも子供じみておかしかったので、俺はつい噴き出して笑ってしまっていた。

「失礼」

 俺に馬鹿にされたと思ったのか、彼は頬を膨らませて、俺を睨みつけてくる。

「本当に失礼な奴だな」

「えっと、悪いじゃなくて、すいませんかな、やっぱ。あなた、俺より年上ですよね?」

 見た目、自分と同じくらいの年に見えるのだが、同期ではないのだから、おそらくそうだと思う。

「俺、総務の中塚修(なかつか おさむ)という者で、この花見の幹事をやらせてもらっています。この失礼のお詫びに、酒でも、寿司でも、何でもあなたの好きな物をこの場にお持ちしますよ。」

「!?」

 総務課という俺の言葉に、男は敏感に反応した。

「あんた、総務課なら、伊吹誠司(いぶき せいじ)って男を知っているか?」

「伊吹誠司って、伊吹主任の事ですか?」

「伊吹主任って・・・そっか、あいつ、主任になったんだ」

「?」

 伊吹主任は、俺の直属の上司で、2年連続で俺にこの花見の幹事役を押し付けた、にっくき相手でもある。

 仕事も良く出来て上の評判も良い上司であるが、社員の誰とも、プライベートでの付き合いの全くない堅物の社員として通っている。

 硬派なルックスで女性社員達の間でかなりもてていたものの、昨年、上司の紹介で出会った見合いの相手と、あっさり婚約した。

 だからといって、彼がそれで丸くなった訳でもなく、俺にとっては、いつもどおり厳しい上司なのだが。

 その事を、俺が彼に伝えてやると、彼は顔をほころばせて笑った。

「へえ、あいつ、女と婚約したの?それは、良かった」

 何がどう良かったのか、俺にはよく分からないが、その事を聞いた彼は、心底嬉しそうな顔をしている。

 伊吹主任の婚約の話は、当時、社内でもかなりの噂になっていたのに、この男は、それを全く知らないらしい。

 主任の幸せを喜ぶ様子から、彼が主任と深い繋がりのある人物らしいという事が、俺にも何となく窺い知れた。

 確か、今日の宴席に、主任も来ているはずだが――そう思って、首を巡らして、その人物を探し始めた俺に、彼はある頼みごとをしてきた。

「あのさ、悪いんだけど、彼に俺からの伝言を頼まれてくれない」

「まあ、それは、別に構いませんが・・・伝言と云わず、良ければ、その当人を探して、今ここに連れてきますよ」

 これまでこの花見の宴を自ら辞退していた主任だが、独身最後の年となる今年は、自分から進んで宴席に出ていたはずだ。

 そう思ってした俺の提案を、彼はものすごい勢いで、首を横に振って断った。

「いい、別にそこまでしてもらわなくていいから。ただ、君の口から、今から俺が云う言葉を彼に直接伝えて欲しい。幸せになれと、たとえ、どこにいたって、俺はいつも君の事を見守っているから」

「・・・そんなドラマばりに恥ずかしい台詞、俺が主任に云うんですか?」

「ああ、頼む」

 真剣な表情で、俺にそう頼み込んできた彼の迫力には、鬼気迫るものがあった。

 何かの罰ゲームじゃあるまいし、そんな臭い台詞、誰かに云える訳がない。ましてや、その相手は、あの主任だなんて、そんな冗談は、今すぐやめて欲しい。

 そんな風に思った俺が、話を断わろうとしたら、別の場所にある車座から、俺を呼ぶ声が聞こえた。

「中塚、こっち、こっち!!山本部長が名指しで酌のご指名だぜ。お前の酌で、酒が飲みたいそうだ」

「了解、すぐ行くから」

 そちらに向かって、大声で返事を返す俺の姿を、男は笑って見ていた。

「どうやら、君は、うちの社内では、かなりの人気者らしいね」

「別に人気者と云う訳じゃありませんが、山本部長には、特に目をかけてもらっています」

 そう、本当にいろいろと、もう、嫌って云いたくなるほど、特別目をかけてもらっている。

 あの部長、酒の席にかこつけて、やたらと人の体を触ってくるから、本当はすごく嫌なんだけどな。

 男である俺の尻を触って何が楽しいのかと思うが、世の中、いろんな人間がいると割り切って、いつもいやいや彼の相手をしていた。

 これも人間修行と自分に云い聞かせ、大概の事に我慢してきたが、最近、その行為がしつこくて仕方がない。

 セクハラを甘んじて受けてはいても、俺にその気は全くないから、もういい加減、勘弁して欲しいのだけれど。

「じゃあ、俺、向こうへ行ってきますんで」

「伝言の件、よろしく頼んだよ」

「そう云えば、あなたのお名前は?」

「コバって云えば、彼には、それで分かる」

「おい、中塚、早くしろよ」

「今、行くっ」

 せかされて、しぶしぶその場所に向かう俺を、彼は手を振って見送っていた。

「お待たせ」

「遅いよ、中塚」

「!?」

 俺の到着を待っていた一団に混じる前に、元居た場所を振り返ってみると、つい先程まで話していた彼は、もうそこには居ない。

 もしかして、トイレにでも行ってしまったのだろうか・・・

 部長の杯に酌をしながら、時折、その場所を窺ってみたが、結局、最後まで、彼が席に戻る事はなかった。

 

 

 

 

 

「大丈夫ですか?部長」

「なんの、これしきの酒、わしは、まだまだ、大丈夫だよ」

 その言葉とは裏腹に、足元のおぼつかない部長の体を、俺は、自分の肩で必死に支えていた。

 俺に酌をさせ、暫くの間、ご機嫌で酒を飲んでいた部長であるが、飲みすぎで気分を悪くしてしまった為、幹事の俺が、急遽、トイレに連れて行く事にした。

 悪酔いして、酔いつぶれてしまった上司を介抱するのも、幹事であるこの俺の仕事である。

 肩にずっしりと重みののしかかってくる、でっぷりと太った部長の巨体を、俺は、引き摺るようにしてトイレの個室まで運んだ。

 花見客で混雑しているかと思われた公園のトイレは、その時に限って、何故か一人も人がなく、珍しく閑散としていた。

 俺は、よれよれとなった部長の体を支えて、その中の一つに入った。

「ほら、部長、着きましたよ」

「ん〜」

「気分が悪いのなら、ここで、思いっきり吐いちゃってください。一度、胃の中身を全部出してしまえば、酔いもすっきりとしますから」

 そんな事を云いながら、背中を擦っていた部長の体が、二人して、トイレの個室に入った途端、いきなり俺に抱きついてきた。

「ぶ、部長!?」

 咄嗟の事に混乱して、慌てふためく俺の耳元に、部長がどもりながら、酒臭い息を吐きかけてくる。

「い、いいだろう? 中塚くん」

「!?」

 酔いのせいか、血走った目で俺にそう囁きかけてくる部長は、既に常軌を逸していた。ものすごい力で、俺の体を引っ張って、自分の腕の中に抱き込もうとしている。

 酔っ払いに何を云ったって無駄だって事は、俺も良く分かっているが、このままずっと部長に抱きすくめられたままという訳にもいかない。相手を押し退けようと、必死に暴れて抵抗した。

「部長、酔っていらっしゃるんですかっ、 しっかりしてくださいよ、部長っ」

「わしゃあ、酔ってなんかいないさ。君の可愛らしいお顔もちゃんと見えているよ」

「!?」

 それが事実だとしたら、俺は騙されたって事?

 部長は最初から、こうする事を狙って、俺をここに連れ込んだとか・・・騙された自分が迂闊だったものの、あまりの事に完全思考停止状態となってしまっていた俺の体に、部長が触れてくる。

「やっ――」

 やばい部分に触れられ、思わず甘い声をあげてしまった俺に気を良くした部長は、更に攻めの手を伸ばしてきた。

 服の上から、俺の大事なイチモツを掴んで、それを優しく扱いた。

 たとえ、大嫌いな相手の手だったとしても、そこを揉まれてしまえば、感じてしまうのが男の悲しい性で・・・

「うう・・・う・・・」

「気持ちいい?」

 唇で耳朶を食まれ、そう尋ねられた言葉を、俺は必死に首を横に振って否定した。

 感じてはいるけど、こんなの、全然気持ちよくない・・・なのに、体だけは勝手に追い上げられてしまう。

「放せっ、放せったらっ」

「感じているんだろう?君も。だったら、このまま、私と一緒に楽しもうじゃないか」

「!?」

 楽しむって、一体、何を? 悪いが、俺に、そんな気は全くない。

「だれか――」

 大声をあげて助けを呼ぼうとした口を、手で強引に塞がれた。予め、用意していた紐で、部長は、俺の体を縛りつけようとする。

 その恐怖に、俺が身を竦みあがらせたその時

「中塚?」

『!?』

「そこにいるのか?中塚」

「いぶ――」

「中塚?そこにいるのは、中塚なのか?」

 尋常でない中の様子に気付いてくれたのは、個室の外に居た伊吹主任で、主任は、固く閉じられたそのドアに、外から体当たりしてきた。

 その勢いでドアが開きそうになる前に、部長は、舌打ちして、慌てて俺の体を放した。

「伊吹主任っ」

「中塚!?」

 鍵が壊れ、ドアが開けられた瞬間、部長の手を逃れ、外に躍り出た俺は、そこに立っていた伊吹主任の胸に、自分から飛び込んでいってしまっていた。

 このタイミングで、主任がここに来てくれたから良かったものの、そうでなかったら、俺は・・・

「・・・どういう事ですか?これは」

 自分の胸に俺を抱いた主任が、中にいた部長を鋭い目で睨み付けた。

「いやあ、ちょっと酒が過ぎて飲みすぎちゃって、中塚くんに介抱してもらっていたんだけど、おかげさまで、もう大分良くなったよ」

 部長はそう云うと、まるで何事もなかったかのように、平然とした顔で、そこから出て行こうとする。

 その相手を、主任はいきなり呼び止めた。

「山本部長」

「はい?」

「!?」

 振り返った部長の顔に、主任の拳が叩き込まれる。振り向きざま、主任に殴りつけられた部長は、そのまま床に転がって、無様に尻餅をついた。

「な、何をするんだ、君は、いきなり失礼じゃないかっ」

「これは、これは、てっきり、まだ酔っていらっしゃるのではとないかと思って」

「な・・・」

 一体、どこから俺達の話を聞いていたのか、相手を殴りつけておきながら、済ました顔でそう答える主任は、この密室の中で行われていた出来事について、全てを察しているようだ。

「大事ないか?中塚」

「ええ、まあ・・・」

 大事に到る前に主任が来てくれたので、何とか事なきを得た。

 だが、主任に殴られた部長の方は、どうにも腹の虫が治まらぬ様子で、顔を真っ赤にして、主任に食って掛かっていった。

「失礼じゃないか、君っ、人をいきなり殴りつけておいて、そんな――」

「酔ったフリをして、部下をこんな所に誘い込むあなたの方こそ、俺はどうかと思いますが」

「人聞きが悪いな、君っ、一体どんな証拠があって、そんな・・・」

「証拠がなけりゃ、何をしてもいいって訳じゃないでしょう。なんなら、今ここであなたがしようとしていた事を、この中塚の口から、みんなの前で公言させましょうか?セクハラも結構だが、大概にしないと、自分で自分の首を絞める事にもなりかねませんよ」

「ぐ・・・」

 主任にそこまで云われた部長は、返す言葉もなく、そのままじりじりと引き下がっていく。

 主任の言葉に追い詰められ、行き場をなくした部長は、唇を噛んで、逃げるようにしてそこから走り去っていった。

 あとに残された俺達は

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・えっと」

 まずは助けてもらった事に対する礼を述べるべきであろう。

 開口一番、俺は主任の前に深く頭を垂れて、その事に対して、感謝の意を述べた。

 訊けば、妙な胸騒ぎがした主任は、俺が部長と二人でトイレに行った時から、ずっと俺達の後をつけていたらしい。それから

「そう云えば、俺、さっき主任の知り合いだって人から、主任への伝言を頼まれたんですよ」

「俺の知り合い?」

「えっと・・・確か、コバって云えば分かるって」

「コバだって!?」

 俺の言葉を聞いた主任の顔色が、みるみる変わっていく。

 今にもその場に倒れてしまいそうなほど真っ青な顔色となった主任は、迫力ある形相で、俺の胸倉をいきなり掴んできた。

「おい、お前、その名前、一体どこで聞いた?」

「どこでって・・・たった今、俺はその本人と会っていたんですが」

「酒に酔っているのか?お前。コバは、もう5年も前に死んじまっているんだぜ」

「!?」

 じゃあ、俺が、さっき会っていたあの人は・・・?

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

 そうと知った途端、背中の真ん中に冷たい汗が走る。主任同様、青くなった俺の肩に、主任は優しく自分の手を置いてきた。

「お前、そういうのが見える体質なのか?」

「・・・いえ、俺は、全然」

「じゃあ、あいつが、わざわざお前を選んだって訳だ」

 主任に自分の言葉を伝える相手として、その男は、わざわざこの俺を選んだと云う。それは、ほんの偶然であるのか・・・

「・・・主任、そのコバって人は・・・?」

「本名は、小林博(こばやし ひろし)――8年前に俺がこの会社に入社した時の俺の同期だよ。今のお前同様、入社2年目に、奴も花見の幹事を命じられた。けど、その花見の日、不運にも交通事故に遭っちまって、そのままあっけなく逝っちまった」

 ちょうど、今日のような花冷えのする晩だったと、主任はその日の事を俺に語った。

「その夜、俺は仕事が長引いて、花見には遅れて参加する予定だった。お祭り好きのあいつは、そりゃあ、その日を楽しみにしていたんだが、段取りだけ整えて、結局、あいつはそれには参加せず終わった。花見の夜、一人会社に残って残業をしていた俺が、奴の事故の連絡を受けて、慌てて病院に駆け付けたんだが、その時には、奴はもう・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

 痛々しい顔でその事を語る主任の、触れてはならぬ過去に俺は触れてしまった。

 我が社恒例の行事である花見に、主任がこれまで全く参加しなかったのには、そんな理由があったのだ。

 その夜、自分にとって本当に大切な人だったその人を失ってしまった主任は、以来、桜の花を見ると、その人の事を思い出してしまうのだという。

 そんなつらい過去を持つ主任が、今年の花見には、自分から参加を申し出てきた。

 それは、主任なりに思うところがあって、そんな自分の過去に別れを告げたかったのかもしれない。

 大事な人を思う気持ちは、その人も主任と同じで、いつまでも過去を引き摺って、なかなか前に進めずにいた主任に、一歩でも先に進んで欲しかったのかもしれない。

「で」

「?」

「あいつは、俺に何て?」

「主任が女性と婚約したって話をしたら、すごく驚いていました。それから、幸せになれって、どこにいても、俺は君の幸せを見守っているからって」

「・・・そうか」

 感慨深くそう呟いた主任の顔が、一瞬泣きそうに歪んだように見えたのは、俺の気のせいだろうか?

 いつもは精悍な主任の顔が、今ばかりは、唇をヘの字に曲げ、泣くのを必死に堪えた子供のように見えた。

「もしかしたら、あいつ、こうして毎年、花見に出てきて、俺の事を待っていたのかもな」

 主任の幸せな顔を見るまでは、彼もまた、安心出来なかったのだろう。

 今宵、俺が主任の幸せを伝えた事で、彼は納得してくれただろうか?

「どうせなら、俺じゃなく、主任に直接会っていけばよかったのに」

 そんな愚痴を零す俺に、主任は、知った顔で微笑みかけてきた。

「いや、あいつは、おそらく、俺の気持ちを知って、それで、わざとお前に話しかけてきたのかもな」

「・・・主任の気持ちって――」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 覗き込むようにして俺の顔を見つめていた主任の瞳が、その瞬間、ふっと緩んだ。

「けど、お前には全然その気がないようだし」

「?」

「ここらで、俺も、年貢を収める事にするかな」

 年貢を収めるって事は、つまりは、女性と結婚する事を指しているのだろうか。主任の云っている事が、俺には、今一つ意味が分からなかったのだが・・・

「お前も、無駄にフェロモンを垂れ流していると、いつかは本当にひどい目に遭うぞ」

「!?」

 それって、俺のせいなのかよっ!?

「まあ、そうならないうちに、お前も早く特定の相手を見つけるんだな」

 女でも、男でもいいから、恋人と呼べる相手を早く作れと、主任は、俺にそう進言してきた。

「その気のないお前の相手は、十中八九、女だろうが、男に鞍替えしたくなったら、いつでも、俺に云えよ」

「あのねえ〜、主任っ」

 冗談っぽくそう云った主任の言葉に、俺は図らずしも、密かに胸ときめかせてしまっていた。

 ほら、これは、よくあるあれだろう?自分の窮地を救ってくれた相手に対して好感を抱くのは、人間として当然の心理というか・・・

「ほら、いつまでも、こんな所で油を売っていないで、早くみんなのところに戻るぞ」

「はい」

 ぶっきらぼうにそう云ってから、先に進む主任の背中に、俺も素直に付き従う。

 どこかで、この光景をあの人が見ていて、静かに笑っているような気がした。

 

 

 人生、いつどこで、どんなきっかけで何が起こるか、本当によく分からないものである。

 その花見の日から数ヵ月後、すったもんだの上、主任は女性との婚約を破棄し、プライベートも含め、この俺と親しく付き合うようになった。

 

 

Fin