Joker

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「・・・どうだ?」

「ああ・・・もう、ほとんど完治している。さすが、この俺が診ただけの事はあるな」

「一人で云っとけ、馬鹿」

 腕のよいドクの治療の甲斐あって、中川の左足は八割方元に戻った。つらい筋肉のリハビリに自ら進んで努めた為、機能的な面においては、ほぼ負傷前の働きを取り戻す事が出来た。

 後の二割は、肌に残った醜い傷と、天気の悪い日などに時折出る痺れるような痛みぐらいであろうか。それも、時間の経過と共に少しずつ薄れていくとの、ドクの見立てであった。

「サンキュー、本当に世話になったな、ドク」

「今更だな、そんなの――治療代を払ってくれるというのなら、いますぐやらせてくれ」

「あのなあ、ドク・・・」

 相変らずそんなくだらない冗談を云うドクを、中川が呆れた顔で睨み付けている。その側に立つ男が、長い足ですかさずドクの尻を蹴り上げた。

「――ったく、あんたの頭には、それしかないのかよっ」

「おあいにくさま。俺は自分の欲望に常に忠実に生きているんでね」

 悪びれる風もなくそう応じたドクに、男は肩を竦めてみせる。ドクが経営するこの診療所に、左足を撃たれ半死半生だった中川を運び込んでから、かれこれ半年が過ぎた。

 この半年間、ドクの元で中川に治療を受けさせる傍ら、男は連中のとの最終決戦に向けて、様々な下準備をしてきた。

 その間、窓の外にわずかばかり見える街の木々は色を変え、季節の移り変わりを自分達に教えてくれる。

 中川をここに運び込んだ直後から、この場所に連中の監視がついている事は男も熟知していたが、自分達の内部に起こった火事を消す事に忙しかったせいか、向こうから何か仕掛けてくる事はなかった。

 だが、ここに来て、その内乱も落ち着きつつある。

 宮川会をここまで大きくした、いわばこの組の功労者でもある前会長が、自分の息子ではなく孫の尊に肩入れしているという。

 宮川会の現会長である宮川誠(みやがわ せい)は、男にとって、妹を殺した憎き仇である。罠にかけ、男の父親を殺した前会長の宮川敬――この二人だけは、絶対に許す事が出来ない。

 加えて、自分をおびき出す餌に中川を穢した尊にも、男は報復を与えるつもりでいた。

「・・・もうすぐ桜の季節だな」

 部屋にある小さな窓から外を覗き込むように見ていた中川が、ふとそんな呟きを漏らす。

 いつもの年であるならば、気の合う仲間と花見の一つでもしていただろうに、この半年間、中川は一度もこの部屋の外に出ていない。

 足を怪我していた為、暫くまともに歩けなかったせいもあるが、リハビリが進んでからも、自分から外に出ようとはしなかった。

 ずっと部屋の中にばかり篭っていたら、いい加減くさくさとした気持ちになるだろうが、中川の身の安全を思うと、こうしている事が一番よいようにも思える。

 この数ヶ月間、一度も切る機会のなかった髪が、首筋にかかるところにまで伸び、それがこの男の儚げな容貌に何とも云えない色気を与えていた。

「堪んないな」

「何が?」

「最近のあんたは、思わずむしゃぶりつきたくなるくらい綺麗だ」

「ドクっ!!」

 ドクにそんな風にからかわれ、中川は頬を赤く染めていたが、それはいつも共にいる男も思う事で、こんな穴倉に居るにも関わらず、ここ最近の中川の姿は溢れんばかりの輝きに満ちている。

 想いが通じ合って後、男は幾度となく中川の体を抱いたが、おそらくは、それが一番の原因であろう。

「あんた、酒は?」

「まあ、少しなら・・・」

「じゃあ、三人で花見でもするか」

「ここで?」

 そんな男の提案に、中川が怪訝に眉を顰める。惚れた弱みか、そんな何気ない表情さえ、男はとても愛おしく感じていた。

「花見ったって、桜は?」

「花ならあるさ」

「は?」

「ほら、目の前に」

「!?」

 と、男は中川を指差す。それを見て、ドクは、そりゃいいやと笑った。

「冗談――何で、俺が花の代わりなんか」

「この3人の中じゃ、あんたが一番適役だろ?」

 同じ男でありながら、何を基準にそれを選んでいるのか・・・その判断基準に中川は大いに首を傾げた。

「じゃ、膳は急げという事で、ついでにあんたの快気祝いもしようぜ」

 そう云って、早速台所に酒を取りに走るドクは、既にその気満々である。中川同様、買出しと男を漁る以外、滅多に外に出る事のないドクは、こんな理由でもつけて、みんなで騒ぎたかったのかもしれない。

「ドク、俺も手伝うよ」

 酒の肴を拵えるべく台所に向かったドクを追おうとした中川の腕を、男がすれ違いざま掴む。ドクが部屋に居ないのをいい事に、捉えた体を自分の腕の中に抱きこんだ男は、そのまま中川の体を背後から抱いた。

「!?」

 その瞬間、中川の心臓がドクンと大きく跳ねる。いきなりの抱擁に驚き、逃げるようにその場所で身じろぎした中川を、男は更に強く抱いた。

「おい、やめろっ、ドクが来ちまう」

 二人の関係を既に知っている相手であっても、こんな場面はなるべく他人に見せたくない。そう思って暴れる中川の耳元に、男はそっと唇を寄せてくる。

 その唇で耳を食まれ、中川は思わず甘い声をあげた。

「あっ・・・」

 やめろ――と男を拒絶する中川の声は、既に艶に濡れている。半分その気になりかけた体を宥めようと、息を堪え必死に耐えていた中川に、男は背後から囁くように話しかけてきた。

「本当にいいのか?」

「?」

「このまま俺と一緒にいて、本当にあんたは後悔しないか?」

「!?」

 決行の日が近いのに、今更そんな事を云う男の顔を、中川は驚いた顔で見つめる。

 いつも強気な男にしては、えらく歯切れが悪いその言葉を、中川はわざと笑い飛ばした。

「なんだ、ここに来てびびっちまったのか?今更そんな事を云うなんて、あんたらしくない」

「引き返すなら、今が最後のチャンスだ。ここを過ぎると、あんたはもう永遠に元の世界に戻れなくなる」

 元より、その決意を持って、中川はここまできた。自分の全てを犠牲にしてでも、彼女の復讐を果たすつもりでいた。

 その過程でこの男と出会い、その相手に強く心惹かれる事となってしまったものの、中川が目指すものは、今も変わりはない。

 由香の――彼女の為に、連中に必ず一泡吹かせてやる。

「もしかして、俺の事が邪魔になったとか?」

「まさか」

「じゃあ、何故、今更そんな事を云う?」

「それは――」

 愛してしまったから――中川の事を思いもかけず愛してしまったから――そんな自分の気持ちに、男はひどく戸惑いつつある。

 物心ついた時から、ずっと一人で生きてきた男は、自分の家族以外の人間を誰も愛した事などない。

 吉見を始め、自分と同じ波長を持つ相手に対して、好意を感じてはいるが、それは恋愛感情とは非なるものである。

 誰かの事をこんなにも愛おしく思えたのは、中川が初めての事だ。自分の妹ではないが、中川には誰よりも幸せになって欲しいとも思う。出来れば、自分なんかとは関わらずに、どこか自分の知らない場所で平穏な人生を送っていて欲しかった。

「・・・・・・・・・・・・」

 なかなかその先の言葉を続けようとしない男の唇に、不意に中川の唇が触れる。羽のような軽やかなタッチで、ほんの一瞬載せられただけのそれは、触れたと思った瞬間には既に離れている。

 それでも、一応はキスに変わりはなく、晩生な中川にしては、かなり大胆な行為であった。

「!?」

「・・・俺はいつだって、あんたの側にいる」

 病める時も、健やかなる時も、死が二人を永遠に分かつまで、ずっとお互いの側にいたい――それは、男も同じ気持ちだ。

「俺だって、この先もずっとあんたと一緒にいたい。今更、あんたと離れたくはない」

「だったら――」

 こんな風に互いの気持ちが通じあっているのに、何を悩む事があろう。

 しかしながら、男は思っていた。これが光ある未来へと続く道なら、男も両手を広げて中川を迎えただろうが、残念ながら、男が向かう場所は地獄への入り口である。

 そんな危険な場所へ中川を連れ込みたくない。

「なあ、やっぱり、あんたは復讐なんかやめて、今すぐ元の世界へ戻った方がいい。今ならまだ間に合う――そうして、あんたには、あんたに似合う平穏な道を歩んで欲しい」

 好きだからこそ――愛しているからこそ、その人の幸せを願う――死の間際、中川の幸福を願った妹の気持ちが、今になって男にようやく分かった。

「・・・あんたには、妹の分まで幸せになってもらいたい」

「・・・・・・・・・・・・・」

 これまで何度となく中川に伝えたその言葉を、男は再び口にする。その幸せを出来れば自分の手で中川に与えてやりたかったが、その前に自分にはどうしてもするべき事があった。

「あんたに何かあったら、妹が悲しむから――」

「あんたに何かあったとしても、由香は悲しむ」

「!?」

 そんな大義名分を持って男にしがみつこうとしている自分を、中川はひどくみじめに思った。そんな言葉でしか男を縛り付ける事の出来ない自分を、ひどく情けなく思う。

「俺は、どんな事をしたって、あんたについていくつもりだ――あんたが、ここで俺を切り捨てたって、結局同じ事だぜ?俺とあんたの行く道は同じ――あんたの存在なくして、俺の幸せはありえない。自分にとって大切な相手を失うのは、もう由香一人で沢山だ。自分の心の真ん中にぽっかりと大きな穴が開いた・・・あんなつらいを思いを、俺はもう二度としたくない。彼女を守れなかった分、今度は俺があんたを守る。あんたをみすみすあんな連中に殺させはしない。だから、頼む――俺をあんたと一緒に行かせてくれ」

「・・・・・・・・・・・・・」

 曇りのない瞳で男を真っ直ぐに見つめ、声高らかにそう宣言した目の前の相手を、男は堪らなく愛おしく思う。

 愛しさゆえ、その相手を死なせたくないと思うが、愛するものに先立たれた者の悲しみは男にも分かる。そんな悲しい思いを、中川に再びさせたくない――

「・・・分かった」

「!?」

「あんたが、そこまで云うのなら」

 男がそう云うと、固く強張っていた中川の体から、ホッとしたように力が抜けた。

「じゃあ、俺の前で、もう二度とこんなくだらない事を云うな」

「・・・くだらないって、大切な事だぜ、これは」

 引き返す最後のチャンスを、男は自分から中川に与えようとした。今、この瞬間、繋がれたこの手を中川の方から振り払って欲しいとそう願ってもいたが、相手にその気はないらしい。

 だったら、とことんまで自分に付き合ってもらおうと、男も腹を決めた。

「あんたの足手まといにだけはならないようにするから」

 男の目を見つめ、そんないじらしい事を云う中川の体を、再び己の腕で抱く。そのまま首を傾けて唇を奪おうとしたところ、部屋の入り口に立つドクの姿に気づいた。

「ドク」

「!?」

「なんだ、邪魔して悪かったな」

 その言葉に、男の腕の中にいた中川が露骨に反応する。顔を真っ赤にして、慌てて男から離れようとするその姿を、ドクが面白そうに見ている。

 男と肉体関係を持ちながらも、いまだ初々しさの残る中川のその振る舞いが、ドクの目には非常に眩しく感じられた。

「俺を気にしないで、よかったら続きをどうぞ」

「あんたがそこに立っていたら、おちおちこいつの服も脱がせられやしない」

「おいっ」

 冗談だと分ってはいても、ついついそう叫ばずにはいられない。そんな中川の体を、男はドクに見せ付けるようにして、強く抱きしめてくる。

 人目を気にせぬ、男の大胆なその行動に、中川は堪らず声をあげた。

「もう、いいだろう」

「何が?」

「!?」

 何がと、男に逆にそう問い返され、中川はそこで言葉に詰まってしまう。

「いいから、もうこの手を放せ」

「何だよ、今更、何そんなに照れているんだよ」

 ドクと二人、顔を見合わせてクスクスと笑いながら、男はようやく中川の体を放してくれた。自分の存在をネタにされからかわれるこの状況に居心地の悪さを感じた中川は、そのまま自分一人だけさっさと部屋を出て行く。

 そんな中川の後姿を見て、ドクが小さく肩を竦めた。

「何だ、相変らずつれない男だな」

「そこが、あいつのいいところさ」

 臆面もなくそう云い放った男の表情は、らしくもなく、とても和らいで見える。これから連中に殴りこみをかけようというその緊張感は、全く見受けられない。

 男とこれまで長く一緒にいながら、ドクは初めて男のこんな表情を見たような気がした。

 ドクが知っている男は、回り全てを敵で囲まれていたせいか、いつもピリピリとしていた。触れれば自分がまですっぱり切れてしまいそうな、そんな緊張感にいつも満ちていた。

 それが、ここに来て、男は随分変わった。

 自分以外のものに全く興味を持たなかった男が、自分より弱い存在を守ろうとして、必死に格闘している。

 それも、これも、全てはあの中川のせいか――

「・・・気をつけろよ」

「?」

「あんたのあのお姫さま、あれは間違いなく、あんたのアキレス腱になる。これまで誰も愛そうとしなかったあんたが、あいつを好きになるのはいい事だが、その事で自分の弱みを簡単に敵に見せるな。でないと、あんたがあいつの為に死ぬ事になる」

「・・・・・・・・・・・・・」

 ドクの忠告は、男も尤もだと思った。今度の事もそうだが、男を潰す為、連中は確実に中川を狙ってくるであろう。

 計画の達成の為、男は自分の命を賭するつもりでいるが、中川の命だけは出来れば守ってやりたい。

 土壇場になれば、自分の命を張ってでも、中川を守るつもりでいた。

「あいつの事だ、あんたを失えば、自分もその後を追って必ず死のうとするだろうな。元々あんたが助けた命だ。俺にそれをとやかく云う権利はないが、出来るなら、俺はあいつに今後も生きていて欲しい。こんなドブ底ではなく、明るい日の当たる世界で――あんたには悪いが、あいつにはそっちの方が似合っている」

 暗にドクは、中川を元の世界に帰すよう、男を諭す。中川の為を思うなら、それが一番良い選択だと、もちろん男にも分かっている。

 だが、結局は中川の想いの強さに押し切られて、自分の側にいる事を認めてしまったのだ。

「俺は、あいつにもあんたにも、生きていて欲しいと思っている」

 いつも憎まれ口ばかり叩いているドクが、男に対し、珍しくそんな真面目な台詞を云う。その望みに到底応える気はないが、それでも、男は穏やかに微笑んでみせた。

「ご忠告ありがとよ。いざとなったら、あいつの世話はあんたに頼むから」

「何だよ、それ」

「俺亡き後、もし、あいつがこの世に生き残っていたなら、俺の代わりにあんたが慰めてやってくれ」

「は?」

「但し、俺は同じ事を智大にも頼んでおくから、後の事は二人で話し合って決めてくれ」

「それは無理だな」

 男がいるから、あの鼻持ちならない弁護士とも仕方なく付き合ってはいるが、元来、あの男はドクの性に合わない。優秀な男だと分かってはいるが、それが尚更、自分の鼻につく。

「あいつと仲良く話し合いをするくらいなら、無理矢理自分のものにするさ」

「あいつに何かあったら、俺が化けて出てやるからな」

 そんな冗談を云い合いながら、二人で向かった台所で、中川が器用にフライパンを振っている。ここで生活するようになって、ドクに毎日のように料理の手ほどきを受けていたおかげで、ここ数ヶ月間の間、中川の料理の腕は格段にあがった。

 エプロン姿もかなり板についたと云ってしまっても過言ではない。

 既に何品か作り上げて、テーブルの上の並べられていた料理に、男が手を伸ばす。指でつまみあげた料理を一口口に運んで、男は声をあげた。

「旨い」

「だろ?これも俺の指導の賜物だぜ」

 そこにいるだけで、なかなか加勢してくれようとしない二人に、中川の叱責が飛ぶ。

「いつまでも無駄口叩いていないで、あんた達も早く手伝え」

「お〜、こわ」

 中川にせかされ、ドクも包丁を握る。その後ろで、男は酒の準備を始めた。

 それが、ドクの元で、三人で過ごした、最後の夜になった。





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