Joker

― 70 ―



「なっ――」

「動くなっ」

 首筋にピタリとナイフを押し当てられた翁の顔が死の恐怖に歪む。胸がすくような思いで翁を見つめながら、男は翁の耳元にゆっくりと囁きかけた。

「これで、ようやくあんたと話が出来る」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「御大っ」

「!!」

 足元にあるはずの銃は、既に中川によって遠くへ蹴り飛ばされている。それでも、翁を助けようとして、尊は丸腰で中川に突進していった。

 男の『動くな』の声がまるで聞こえていないのか、翁の身の危険を顧みず、がむしゃらに暴れる尊の行動に、逆に中川の方がひどく辟易した。

「おいっ」

「尊っ」

「!?」

 翁に呼びかけられる事で、尊がようやく我に返る。命惜しさからか、翁は自ら声を荒げて尊を制した。

「あまり大仰に騒ぐでない。お前はわしを殺す気かっ」

「・・・申し訳ありません」

「――と云う事で、あんたら全員、今すぐここから出て行ってもらおうか」

「断るっ」

 男の提案に対し、尊は即座に拒絶の意を唱える。

 不利な状況下で、己に拒否権がない事は尊も十分承知していたが、それでもこの男にだけは屈したくない。

 血の繋がりのある孫を差し置いてまで、祖父が傾倒したこの男にだけは絶対に負けたくなかった。

(全くどいつもこいつも――)

 父も祖父も、二言目には『ジョーカー』、『ジョーカー』と盛んにこの男の事を口にする。敵ながら組の存在をも脅かす鮮やかなその手口を尊も認めてはいたが、組の為に常に身を粉にして尽くしている己の事も正当に評価して欲しい。

 この組の未来を担うのは『ジョーカー』ではなく尊のはずなのに、父も祖父も、目の前にいる自分をまともに見ようとしない。

 それが、尊が『ジョーカー』を憎む一番の理由であった。

「分かんない奴だなあ、これまでも散々俺達の事を掻き回してくれたけど、あんたはお呼びじゃないんだよ。いい子だから、俺の云う事を素直に聞いてくれないかな」

「!!」

 二人ばかりか、この男も自分をまともに見ようとしない。敵である『ジョーカー』にまで馬鹿にされた事が、尊の怒りにますます火を注いだ。

「このっ」

「だから、大人しくしろって」

「!?」

 翁を拘束する男に代わって、中川が尊を取り押さえる。後ろ手に捻った腕をきつく締め上げ、相手の動きを封じる。

 それでも、まだ尊は抵抗をやめず、中川の腕の中で激しく喚いていた。

「ちくしょうっ、放せっ、放せったら」

「・・・次期組長候補が聞いてあきれるぜ。人の話もまともに聞けないこんな阿呆が跡目を継ぐようなら、この組の先も見えていたな」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「なあ、じいさん、あんた、こいつの肉親として、こいつに一体何を教えてやった?こいつだけではない、俺の肉親を殺したあの息子にだって、あんたはろくな接し方をしていなかっただろう。色ボケのあんたは、毎晩自分好みのガキを抱く事にしか興味がなかったものな。己の利益の為なら、他人の命なんてどうだっていい。むしろ、家族なんて、邪魔なだけじゃないのか」

「貴様――」

 肌を削ぐようにナイフを滑らせながら、男は翁の耳元に話しかけている。翁の目は恐怖に血走り、もはや冷静さを保っていない。

 『ジョーカー』はそう云うが、翁は翁なりに自分の息子の事を愛していた。だからこそ、息子の死をこんなにも嘆き悲しみ、冷静さを失ってしまっているのだ。

「貴様・・・よくも、わしの息子を――」

「血の繋がった家族とは云え、あんたにとっては、いくらだって替えの利く部品だろ?俺はあいつに自分がされた事を、そっくりあいつに返してやっただけさ。天罰だよ、これは」

「!?」

 男のその言葉から、先程屋敷の外で起こった爆発の概要を中川は初めて察した。

 おそらくは、あの爆発で組の会長は死んだのだ。そうなるよう、男は予め会長の車に爆薬を仕掛けていたのだろう。

 屋敷が火に包まれた以上、いずれ相手はこの屋敷を出る。その時の移動手段に予め細工をしていたのだ。

 もしかしたら、今男が捉えている翁の車にも同じ仕掛けをしているかもしれない。そう思うと、今更ながら、男の事が末恐ろしくなる。

 この先、一体どんな手段を使って翁を始末する気か、残酷なその場面から自分の目を背けたいと中川は思った。

「息子を、わしの誠を返せっ」

「だったら、あんただって、殺した俺の両親を返してくれよ、俺の妹を返してくれよ――そうしてくれるというのなら、今すぐこんな復讐はやめる」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「どうした?何故そこで黙り込む。あんたほどの力があれば、俺の親を生き返らせる事ぐらい簡単だろう。なにせ、あんたは、この闇社会で怪物と呼ばれるほどの傑物なんだからな。その力を是非俺達の為に使ってくれよ」

「!?」

 もったいぶるなと男が鋭く叫んだのと同時に、男が持つナイフが翁の耳を掻き切っていた。スパッと切れ味よく切り落とされた翁の耳が、尊の目の前に落ち、驚いた尊は地面にみっともなく尻餅をついた。

 ひっと声にならない悲鳴をあげた翁は切り落とされた場所に手をあてがい、必死に出血を防いでいる。

 あとからあとから溢れ出てくるその血は腕を伝って下に落ち、やがて床に大きな血だまりを作る。

 血の泉の中で、痛みにのた打ち回る翁の姿を、他の組員達はおろおろと見つめていた。

「御大っ」

「くそっ、くそっ」

「まだ、まだ、あんたにはもっと報いを受けてもらう」

「!?」

 悶え苦しむ翁の襟首を掴んで、その体を無残に引きずり回す。部屋の中心にボロボロとなった翁の体を据え、その上に男は馬乗りに跨った。

 手にしたナイフを心臓目掛け振り下ろそうとしたところに尊が飛び込んでくる。

 半ばパニックに陥っていた尊は、自らの痛みも気にせず、男が握るナイフに直接手をかける。刃が指に食い込み、そこからおびただしい血が流れていたが、それでも尊はナイフを放そうとしなかった。

「俺の邪魔をするなっ」

 翁を助けたかった訳ではない。男に負けたくはないという自分の意地が尊をそんな行動へ駆り立てていた。

 ナイフを放した男が、尊を横殴りする。手に握るナイフごと尊は真横に吹き飛び、部屋の壁に激突した。

 背中から壁にぶち当たった尊の側に、他の組員が慌てて駆けつけた。

「若っ」

「俺はいい、早く御大を――」

 そう指示を受けた組員を翁に近づけさせまいとして、飛び掛ってきた組員達に中川が一人で応戦する。

 その中川に向け、尊は言葉を発した。

「・・・皓もお前達がやったのか?」

「・・・ああ」

「ならば、この組もいよいよ終いだな」

「若っ」

 ここに皓ではなく二人が現れた時から、ほぼその予測はついていた。いつも自分を側で見守ってくれていたあの男はもうこの世にはいないのだと。

 あの時、尊に聞こえた皓の声はやはり空耳ではなかったのだ。

「・・・行け」

「え・・・」

「いいから、お前達だけでも早く行け。この屋敷が完全に燃え落ちる前に――今なら、まだ助かる」

「若っ」

 もういいと、この瞬間、尊は全てを放棄した。この組の事も翁の事も、己の事さえどうでもいいような気がしてきた。

 元々己の存在価値はこの組の中にしかない。その組も翁と共に今消えようとしているのだ。

「若、若も一緒に」

「俺はいい」

「!?」

「俺は約束したんだ。ここで皓を待っていると。あいつと一緒でなきゃ、ここから出ない」

 それが、最後まで想いに応えてやる事の出来なかった皓に対して、自分が唯一してやれる事だと思う。

 あいつが死ぬのなら、自分も死ぬと、尊は最初からそう決めていた。

 実体がなければ影は存在しない。自分は尊の影になる男だと、皓は常日頃からそう豪語していたが、その逆もまた然り――影のない人間はこの世の幻でしかない。

 極道なんて腐ったこの世界でこれまで自分がまともに生きてこられたのは、皓が側にいたからである。皓が支えていなければ、とっくに自分は破滅していた。

「・・・あいつは、俺の半身なんだ」

「・・・・・・・・・・・・・・」

 そう呟く尊の側から、轟々と燃え盛る火の間を縫うようにして、一人、また二人と組員達が去っていく。やがて、残り全ての組員が部屋から去り、翁と男、中川と尊が現場に取り残された。

 火柱が周囲をうず高く取り囲み、息が苦しくなる。そんな中、ふらふらと立ち上がった尊が部屋を出て行こうとする。

「おいっ」

 大声をあげた瞬間、煙を吸い込んで、中川はひどくむせた。ひとしきり咳き込んで顔をあげた折、尊の姿はそこから消えてしまっている。

「!?」

 すぐにその後を追おうとしたが、火勢に阻まれて思うように前に進めない。仕方なく追跡を諦め、元いた部屋に戻ろうとしたが、燃え盛る火が中川の退路を断つ。

「くそっ」

 男と共に自分はここで焼け死ぬと中川は思った。あの部屋で男はもう翁を己の手にかけただろうか。

 先の爆発で、彼女を嬲り殺しにした連中も会長と共に死んでくれていればいいが。

 立ち込める煙が視界を塞ぎ、中川の目の前から男の存在を消した。翁も男も何も見えない、紅蓮に染まる世界の中で中川は己の最後を覚悟した。

 これまでの自分の生き方を振り返ってみて、そんなに悪くない人生だったと思う。最愛の女には死なれてしまったが、その死がきっかけとなって、男に出会う事が出来た。

 彼女の死後、復讐の念にとりつかれ、生ける屍と化していた中川に男は生きる力を与えてくれた。

 中川の心に寄り添い、中川と共に彼女の恨みを晴らしてくれた。

 その男もまた中川と共にここで朽ち果てる事となるのだろうか。最後の最後にもう一度だけその顔を見たいと思った。

だが

「ぐ・・・」

 辺りに充満する熱風と煙が、中川の意識を徐々に奪っていく。もうその場にじっと立っている事もままならない。息をする度に喉がひりつくように痛む。

 燃え盛る火の手は中川の直前にまで迫っていた。パチパチと爆ぜる火の音が、子守唄の如く中川を眠りに誘う。

 その音に混じって、己を呼ぶ男の声が聞こえた。





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