雛
雛
ことん、と官女を持ち上げた。
最上段の金屏風にお雛さま、お内裏さま、その下に三人官女に五人囃子に随身。うちは由緒正しき七段飾り。ひとり孫娘だから、なんて張り切ったお母さんのお父さん、あたしのお爺ちゃんが贈ってくれたものなんだって。うちのマンションに七段飾りなんて置けない! って、お母さんは怒ったらしいけども。
ちいさい時は立春の頃に曜子おばさんと、予定が合ったらお母さんと三人で、早坂のおうちの仏間に飾った。お雛さまの小さなお手てとか、三人官女の持つ杓子を見ていると、どうしてもお人形遊びがしたくなってよく窘められたものだった。
3月3日は桃の節句。
この日が本番だというのに、その日のうち早々にお雛さまを片付けてしまわなきゃならないのは、昔からすごく残念だった。泣いて嫌がった記憶すらある。
そんなとき、おばさんは笑って、
『嫁き遅れちゃうよ』
と言った。そんなの構わない、と言うと、
『ゆめちゃんの好きな男の子が、他の女の子と先に結婚しちゃっても?』
あたしはびっくりして、曜子おばさんの顔を見た。まるで女の人に見えないカッコイイおばさんは、いたずらっぽく笑って、
『いくつに結婚しても良いと思うのよ。でも、その結婚は、絶対に好きな人として欲しいの』
ゆめちゃんには絶対、と曜子おばさんは更に言葉を重ねた。
まだおばさんが生きていた頃。あたしが3つか4つぐらいのときのことなのに、どうしてこんなに覚えているんだろう。
ことん、と音がして振り向くと、三哉兄ちゃんが、襖を開けて立っていた。
「まだ片付かないのか?」
渋い顔をして言ったので、壁にかかっている時計を見ると、もう夜の11時を回っていた。2時間近くぼんやりしていたみたい。
三兄が傍へやってきて、畳にあぐらをかいて座った。あたしは首を傾げて、
「片付けるの、もったいなくて」
「ゆめは、雛飾り好きだよな」
三兄が笑う。
あたしの手の中の官女を見て、
「オレは結構怖いけどな、雛人形」
意外な言葉に、あたしは目を丸くする。
「夜中にトイレに行くだろ。するとさ、この部屋から灯りが漏れてることがあるんだよな」
あれ、と三兄が雪洞を指差す。
「コンセント抜き忘れた、と思って入るだろ。そうすると、ぼんやりとこう、白い顔の日本人形が揃って浮かびあがるわけだ、暗闇に」
あれは怖い、とうなる三兄に、あたしは笑った。
ことん、と官女の最後のひとりを箱にしまう。あとはお内裏さまとお雛さま。どっちから仕舞っていいものか、毎年迷ってしまう。
あたしがぼんやりとお雛さまを見上げていると、三兄が、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。
「あと45分ちょい」
え? と振り向くと、3月3日が、と三兄が付け加えた。
「今日中に片付けないと、嫁き遅れるんじゃなかったっけ」
なんだかそれが、まるで三兄にとって他人事のように聞こえて、あたしはムッとする。
「睨むなよ。なんだ、早く結婚したいのか?」
「そんな……」
あたしは言いかけた言葉が、口にしかけた途端判らなくなって、思わず飲み込んだ。
『そんな』の後はなんだろう。
そんなの当たり前じゃない?
そんなことは思ってもない?
あたしは、むうっと黙り込んだ。そうして、お雛さまを持ち上げて、膝の上に抱えた。すると、三兄もあたしと同じようにお内裏さまを手元に持ってきた。
「どうする?」
どうしてか笑みを浮かべたままの三兄の顔から視線をそらして、あたしはむくれた顔を、膝の上のお雛様へと向ける。
「催促してるんじゃないもん」
口の中でもごもごつぶやく。三兄が膝を寄せて、見た目よりも大きく感じるキレイな手で、あたしの頬を撫でた。あたしは、肺にこもっていた息を吐いて、顔を上げた。
「嫁き遅れでも、いいの。スキな人のところに嫁けるんなら、30歳になっても40歳になってもいいの!」
曜子おばさんの言葉を思い出して、あたしは言った。
けれど、やっぱり三哉兄ちゃんが笑うので、あたしは、なにがおかしいのよ、と怒るしかなかった。
だって、と三兄は言った。
「多分、オレそんなに待てないよ」
え? と三兄の顔を見返すと、木箱を差し出される。ほら入れて、と催促されて戸惑いながらもお雛さまをその中へ仕舞う。見ると、三兄もお内裏さまを木箱の中へ仕舞っていた。そして、立ち上がると、金屏風、雪洞とあたしへ手渡してくる。
「手伝うから、今日中に片付けようぜ」
なんだか聞き捨てならないことを言われた気がして、三哉兄ちゃんを見ると、得意そうな顔をして、
「これが理由で、結婚が遅くなったらたまらないだろ?」
あたしはその言葉を都合よく受け取って、しばらく思い出すたびに顔を赤くした。
end