そして、散った桜と恋する僕
まっすぐ正面を向くと、木目の天井が見えた。
頭の後ろには、自分の部屋の床の冷たさを感じる。
体の上には、やわらかくてあったかいモノが乗っている。ちょっと重い。ついこの間までガリガリの痩せっぽちだったくせに、いつの間にそんなに重くなったのか。そのモノの顔を見ると、やたら思いつめた瞳と出会った。
目の前の顔、それはよく知っている人間の顔だった。
今日で齢15になろうかという、お隣りの日吉(ひよし)家の一人娘、ゆめの顔だ。
ゆめは目出度いことに、本日中学校を卒業した。卒業を祝すかのように桜は見事に満開で、今日は快晴なのも相まって、桜の名所は花見客でごった返していることだろう。うちも、ゆめの誕生日祝い卒業祝いを兼ねて、夕方から花見に出る予定だ。
空けた窓からは、春のうららかな日差しと空気が入ってくる。いい花見日和だ。
それで、なんでそんな日に、何ゆえオレは、ゆめに押し倒されにゃならんのだろうか。
自分に馬乗りにのしかかっているゆめを、オレはうんざりと見る。
しかも、ゆめは卒業式のその後すぐ来たのだろう、中学のセーラー服のままだ。長い黒髪は三つ編みを解いたのか、ゆるくウェーブがかかって垂れ下がっている。オレの頬にゆらゆらと当たってくすぐったい。
きつく引き結んだゆめのその口唇は、さっきから瞬きひとつしない思いつめた目と同様、一向に開きそうにない。
オレはひとつため息をつく。
とりあえず、理由から聞こうか。
「ゆめ」
ぽんぽん、とゆめの背中を叩く。
ゆめがビクッと体を震わせた。瞳が大きく揺れる。
なんだなんだ、まるでオレが悪いみたいじゃないか。
「どうした? なんかあったのか?」
ゆめは迷うように視線をを惑わせて、大きく深呼吸をした。そして、
「だって、あたしもう15になったもん」
と、言った。
はあ、そうですね。
今日、3月16日は、確かにゆめさんの15回目の誕生日ですね。
「だからあたし、三哉(みつや)兄ちゃんにキスしてもいいよね?」
きす。
一瞬言われた意味が判らずきょとんとしたオレに、勢い勇んでゆめが顔を近づけてくる。
待て。待て待て待て待て。
慌ててオレは、ゆめを無理矢理力づくで押し退けて体を起こす。きゃあ、とか言って横に転がったゆめの腕をひっぱってなんとか転倒を防ぐが、ゆめは頬袋をいっぱいにしたリスのように頬をふくらませていた。
「ひどい! 女の子を転がすなんて、男のすることじゃない!」
だから、転がりきる前に支えてやっただろうが。
ゆめの機嫌はたった一瞬で良くも悪くもなる。今回は悪くなったようだ。
床に女の子座りをして、意固地に頬を膨らませたまま、ゆめはオレを睨みつける。
「だってあたし、三兄がスキだもん」
はいはい、それは何度も聞きました。
一日5回は聞いてるんじゃないだろうか。
三度の食事よりも頻繁に言われれば、さすがに耳たこにもなろうというものだ。
「そもそもなんで『15歳になったらキスをしてもいい』んだ?」
だって、とゆめはそこで口ごもった。
ごにょごにょと口の中で何かつぶやくのを、耳を近づけることでなんとか聞き取る。
「三兄が15のときにキスしてたから」
ええと?
オレが首を傾げると、ゆめがオレのあぐらをかいた膝に両手をついて詰め寄った。お嬢さん、胸元がアブナイですよ。
「見たのよ! 三兄がこの部屋に女を連れ込んでキスしてたの!」
五年も前の話を持ち出されてもなあ。
言われて、ごみ箱にぽいされてデリート寸前の記憶野から、ゆめの言葉に該当するものを探す。
ええとあれか。確か高校に入ったばかりで女の先輩に告白されて部屋に押しかけられて――
ん?
「オレはキスしてないぞ」
「ウソ!」
嘘は言っていない。オレはキスされた方だ。被害者だ。
「一緒よ!」
まあ、行為自体はしたのだから、一緒だといえば一緒だが。
とりあえず落ち着け。
オレはため息をついて、ゆめにそう促す。そして、
「それで、オレが今ゆめにキスをしたとして、ゆめはその後オレにどうして欲しいんだ?」
ゆめはそもそもでかい目をさらに見開いたまま固まった。目ん玉が零れ落ちそうだぞ。
そのゆめの様子を見て、オレは再びため息をつく。今日何度目のため息だ。
やっぱり。
考えてなかったな。
好きだ好きだと言ってくるくせに、オレにどうしろ、とはゆめは言ったことがない。自分の気持ちを伝えるだけで精一杯、それで満足しているんだもんなあ。
「恋に恋してるうちは、キスなんてまだ早いっての」
こつん、と軽くゆめの額をこぶしで小突く。うー、とうなって、ゆめが自分の額を両手でおさえて、恨みがましくオレを見る。ちょっと涙目か?
オレは立ち上がる。窓の外を見ると、夕方から崩れる予想です、なんていう天気予報は大ハズレだという気になる。スバラシイ雲ひとつない快晴だ。
再びゆめに視線を戻すと、未だに両手で額をおさえてむくれている。そのゆめの両手をとって、ひっぱって立ち上がらせる。
「ゆめ」
なによ、とふくれっ面でゆめが答える。
「みんなより一足先に、花見に行こうぜ」
そうオレが言うと、やっぱり機嫌が一瞬で良い方に変わって、嬉しそうに、うん、とゆめはうなずいた。
*
さっき泣いたカラスがもう笑った。
とは、このことだろう。
ゆめは、今年も見事に千の花をつけて重そうに垂れ下がった枝垂れ桜を見て、歓声を上げている。
毎年見ているだろうに。
まあ、毎年見てるオレも、やっぱり見事な花の咲きように感嘆の息をもらしているわけだから、ゆめと同レベルか。
うちの近所には花見の穴場がある。住宅地の奥まった場所にある寺に、樹齢50を数える枝垂れ桜の大木が2本、そこの奥には小高い丘へと続く道があり、その道沿いにもソメイヨシノが植わっている。寺の私有地だ。地元民にもあまり知られていないから、いつも花見は貸し切り状態。
寺の住職とうちの親父が友人だというよしみで、毎年花見はここでさせてもらっている。ゆめの誕生日と花見の満開の時期が重なることが多いので、基本的に毎年花見は3月16日。オレが腕によりをかけて作った重箱弁当と酒とつまみとなんだかんだで、宴会はたいがい明け方まで続く。とりあえず兄貴や親父たちは騒ぐ理由が欲しいだけなんだが、今年はゆめが中学卒業だということで、いつもよりも騒がしいことになるだろう。後片付けに今からうんざりしていても仕方がないが。
太陽が高い。空のうすい青が、冬から春へ移り変わったことを教えてくれる。
ちらちらと風に舞って散っていく桜の花びらを見ていると、いつも夜見る桜を、昼間に見るのもまた変わった味わいでいいもんだ、と思える。
「ゆめ、上、のぼろうぜ」
ぽやー、と口を開けて枝垂桜を見上げていたゆめに、オレは呼びかける。そんなに大口開けてると、口ん中に花びら入るぞ。
セーラー服の襟をひるがえして、ぱたぱたとゆめがオレの傍へ駆けてきた。この制服を着たゆめを見るのも今日が最後かと思うと、なんだか感慨深いものがあるな。
丘への上り道へ出ると、早くも葉桜になりかけているソメイヨシノに出会った。桜が散るのは早いものだ。つい先週咲き始めたと思ったところなのに。
車も通れない、人二人並んだら精一杯の細い砂利道は、散った花びらでピンク色になっていた。
「ゆめ、転ぶなよ」
手を差し伸べると、ひっしと腕にゆめの両腕がしがみついてくる。もうすでに、転びそうになったらしい。
少し湿気を含んだ花びらはよくすべる。ゆめの足元なんか、取りたい放題だろうな。
10分も歩かないうちに桜のトンネルを抜け、丘の頂上、猫どころかスズメの額ほどの広さの広場に出る。ベンチがあるだけの場所だが、見渡すかぎり全部が桜だと、余計なものがないのが今はいいと思える。
ビバ、私有地。誰もいない桜のきれいな場所というのはいいものだ。
ベンチに腰をおろして、ゆっくりと首をめぐらす。うーん、毎年のことながらやはり見事だ。
ふと、横にちょこんと座ったゆめを見ると、髪や肩に花びらをいっぱい載っけていた。
「つきまくってるぞ」
ぱたぱたと肩は手で軽く払ってやり、髪についた分は、細い髪を切らないように一枚一枚取り除いてやる。この天然のキューティクルヘアを傷つけようもんなら、一臣から鉄拳が飛んでくるからな。
最後の一枚をとって、
「終わり」
とオレが言うと、今まで大人しくしていたのはなんだったのか、ぱっと弾けたようにゆめは立ち上がって走り去った。
なんだ?
目でゆめの行動を追っていると、桜の木の下へ入っていって――って、おい!
「三哉兄ちゃん、取って!」
頭から肩から桜の花びらを盛大にかぶって、キャー! と叫びながらゆめが戻ってきた。
その得意満面な顔。
オレは今日一番の盛大なため息をつきつつ、ゆめを隣りに座らせて、再び花びら取り作業を開始する。
一体何が悲しくて、猿のノミ取りの真似をせねばならんのか。
いつもやかましいゆめも、この時ばかりはおとなしく、ややうつむき加減でじっとしている。
一房一房、手でゆめの髪をすくって、花びらを取っていく。
綺麗だなあ。
思って、何が? と思わず自分に突っ込む。いや、桜の花びらのことだ。そう、桜のこと桜さくら。
ゆめの女の子らしい丸い肩、柔らかい曲線の背中、静かなゆめの吐息。
髪が肩からすべり落ちる。するりと白いゆめのうなじが覗く。
ぎくり、とする。
一体いつの間に育ったのやら、ゆめは、ちゃんと女になっていっているような気がした。
……なんだ? オレは何を考えているんだ?
ああもううるさい。耳の横でやかましく鳴る音に気をとられて、ちゃんと考えることができない。
ゆめは、ゆめが生まれたときからのお隣りさんで、オレは何故かずっと面倒を見させられてきて――いや違う。兄貴たちや親父がベタベタ甘やかすのが気に食わなくて、ゆめが甘ったれになるのが嫌で面倒を見ていたにすぎない。とどのつまりはオレの自己満足のためにゆめにアレコレ言ってきたわけで。
って、だから、オレは一体何を考えているのかと。
ゆめを見て、何いらんことを思ってしまっているんだ?
ゆめは5歳も年下だ。ゆめを女として見たことがあるハズがない。ついこの間までおねしょして泣いていたような気すらするゆめを、女として――?
耳元でどくどく鳴る音のせいで、まともな思考に戻れない。この音のせいで――
「三哉兄ちゃん……?」
やかましいのはオレの心臓だ。
顔を上げたゆめの瞳から、オレは目を逸らせなくなった。
『三哉兄ちゃんがスキなの』
ゆめが本気で言ってるのは判ってる。だが、それが家族に類する感情ではないと、誰が証明してくれるっていうんだ。少なくともオレは信用できない。
これからゆめは色んな経験をして、失敗して、痛い目を見て、そうしてたくさんの中から手のひらに載せられる分だけのものを選ばなければならない。
その『選ばれるもの』の中に自分がいるなんて、なんて驕りだろう?
だから、とどのつまりオレは――
ゆめの髪に触れたままの手が熱い。
花びらをかぶって、嬉しそうにしやがって。そんな子供みたいなことをするくせに。
ゆめの口唇が、何か言いたそうに少し開いた。赤い舌がのぞく。
上向けた顔が、その口唇がまるで誘っているように見えたから。
髪をくい、とひっぱって
顎を片手で引きよせて
口唇をふさいだ。
*
口唇が離れたところで、ゆめがようやく現実に帰ってきた。
呆然とオレを見て、
「……どうして?」
と、か細い声で言った。
「どうして、ってそりゃあ」
風に乗ってゆめの髪に着地した花びらを取りながら、オレは理由を探す。5歳も年下でつい今日まで中学生だったゆめの色香に誘われたとは、さすがに言いにくい。
したかったからした、というのもいかにもどうかと思うし。
かといって、理由もなくキスしました、じゃいかんだろう。
「ゆめが15になったから」
結局、今日オレを押し倒したゆめの言葉を借りることにした。
おおよそそれで間違ってないし。
とどのつまりオレは、ゆめの中の『選ばれるもの』にいないんじゃないか、ということが気に入らなかったわけだ。
ゆめが顔を耳まで真っ赤にさせて、オレの服の裾をつかんだままうつむく。
む。
ゆめのその様子を見て、オレはだんだん後悔し始めてきた。
やっぱり、時期尚早っていうやつだったんだろうか?
「じゃあ」
今にも消え入りそうな声が、ゆめから発せられる。
なんだ、とゆめの顔をのぞきこむと、うるんだ瞳で、
「明日もしてくれる?」
ガツン、と。
何が来たのかは判らないが、再びオレはゆめにノックアウトされた。
いつの間に彼女は女の色香を身に付けたのだろう。
オレはうっかり恋に落ちてしまったらしい。
end