カノジョだから
携帯電話がポケットの中で震えた。
ゆめからのメールだ。
『帰ってくるの、何時ぐらいになるの?』
「そんなの、オレが知りてえよ」
時刻を見ると、21時過ぎ。
がっくりと机に突っ伏する。
鎌田教授に、帰り際突然押し付けられた雑用が、未だ終わらなくてへこたれそうだ。
だいたい、なんでゼミ生が他にいないんだ。オレはまだ二年だ。うちの大学の慣例は、三年からだろうに、他に学生がいないからって雑用に引き込まれたんじゃたまったもんじゃない。
まあ、それでも『本当に』嫌ではないから、ここにいるわけだが。
鎌田教授は異才だからな。
ため息を吐きつつ、ゆめにメールの返信をする。
夕飯はちゃんと食っただろうか。レンジで温めれば食べられるようにはしてあったが……。
思ったが、軽く首を回して、そこまで入力したメールを全部消した。
ゆめだって、もう子供じゃない。親父だっているんだし、ちゃんと食べただろう。明日の学校の準備や風呂なんか、オレが心配することじゃないだろ。いくらなんでも過保護すぎるというものだ。
だから、
『先に寝てろ』
それだけ送って、携帯電話の電源を切った。
*
この季節、昼はまるで夏のような陽気のこともあるのに、夜はまだまだ肌寒い。
門へ向かって歩く間に、パーカーを羽織る。
ついで、肩を軽く回すと、ごりごりと嫌な音がした。この年で肩凝りとお友達にはなりたくない。
時間を見たくなくて電源を切っていた携帯電話をつける。時間を確かめると、23時58分。なんとかギリギリ日付を超えなかっただけ、ヨシとしておこう。
ため息を吐きつつ門を通り過ぎようとして、人の気配に視線を向けた。
「あ」
視線を向けた先の人物はオレを見止めて、嬉しそうに笑った。
「三哉兄ちゃん」
一瞬、幻聴かと真剣に思った。
オレを『三哉兄ちゃん』と呼んだ、傍の街灯に照らされているその人物を見た。頭からつま先までじっくり観察すると、相手が居心地悪そうに肩を竦めたので、やはりこれは現実だということを理解する。
ため息を、吐く。
「……三哉兄ちゃん?」
恐る恐る、再度名前を呼ばれる。
思わず怒鳴りそうになったのを必死に耐えて、
「ゆめ」
相手――ゆめが顔を強張らせた。名前を呼んだだけで、オレが怒っているのが伝わったのだろう。
何でこんなところに居るんだ。
腕を強引につかんで、歩き出す。
冗談じゃない。何でこんな時間にこんなところでひとりで居るんだ。
大学の周りは、まだまだ開発が進んでいない土地で、畑や田んぼが広がっている。それは人気が無いってことだ。夜中に女の子ひとり、人気がある場所と無い場所とどちらがマシかなんて論じる気はないが、どちらにしたって危ないことには違いない。
ゆめがオレに引かれるまま、歩く。強引さに戸惑っているのは判るが、
「先に寝てろ、って言っただろ」
ゆめの瞳が揺れる。
怒鳴りはしなかった。だがこれまでの経験からも判っているのだろう。オレがいつもの比じゃなく、ひどく怒っている、ということに。
ゆめは泣くかと思ったけれど、口唇を少し噛んで、涙を堪えたようだった。
「お、遅くなりそうなんだって思ったから、来たの。三兄おなか空いたでしょ?」
涙を堪えているせいで震える喉で、ゆめが努めて笑顔で言って、紙袋を差し出した。食べ物でも入っているのだろう。
オレは眉をひそめる。
「いつから」
また、ため息を吐く。吐きたくて吐いているんじゃない。
「いつから、ここにいたんだ」
ゆめは肩にかけた鞄から携帯電話を取り出して、
「ええと、メールの返事が来てから家を出たから」
ゆめに今日最後のメールを送ったのは、確か21時も随分回った頃だ。それから家を出てまっすぐこの大学まで来たなら、
「22時ちょっとぐらい」
それからずっと、ここで待っていた、と。
「で、電話しても出なかったから」
携帯電話の電源を落としていたオレが悪いのかもしれない。だけど、
「それでどうしてすぐに帰らない」
「だっ……!」
大きな声で反論しそうになって、今が深夜だということを思い出したのだろう、ゆめが小さい声で、だって、と言い直した。
「どうしてオレが怒っているのか、判っているよな」
ゆめがうつむいて、鼻をすすった。とうとう泣き出したようだ。
「い、いらなかった?」
ゆめがしゃくり上げながら訊く。
「こんな時間に来る理由にはならない」
「じゃあ、捨てる!」
なんでそう極端なんだ。
言って即座、掴まれていた腕を振り解き、ゆめは走っていった。そして、田んぼの脇を流れる用水路に紙袋を投げようと腕を上げた。
「そういうことじゃないだろ」
今日は、堪えてオレの言葉を聞いていたようなのに、とうとう癇癪を起こしやがった。
そんなところにゴミを投げ込まれたって迷惑だ。
止めさせようと手を伸ばすが、ゆめは意固地になって取られまいと腕を振り回す。
いい加減にしろ、と怒鳴りそうになったとき、ゆめが足を滑らせた。あっ、と思って腕を掴むが、もう遅い。
ばしゃん、と。
田んぼに水をひく目的の用水路は水深もあまりなく、座り込んでも腰までも深さはない。けれど、二人して盛大に転んで水を跳ね上げてしまったせいで、頭からびっしょり水浸しだ。
もう、本当に、ただ、ため息しか出ない。
「いい加減にしてくれ」
疲れ果ててそう言うと、ゆめが鼻をすすって小さく、ごめんなさい、と言った。
軽く頭を振って水を切る。本当に盛大に濡れてしまった。ここからなら、大学に戻るほうが圧倒的に近い。このままじゃ家に着くまでにふたりとも風邪をひく。
「タオルと服、借りてきてやるから」
大学へ戻ろう、と言うと、ゆめがまた泣き出しそうな顔をした。
「誰に?」
誰って。
「おんなのヒト?」
なんでそんなことが気にかかるのか、判らない。
なんだなんだ、本当に一体どうしたっていうんだ。
「前に付き合ってたヒト?」
「はあ?!」
何を言い出すんだ。
「違う違う、全然違う」
この時間まで大学構内に残っている知り合い、となると、あの人しかいない。殆ど住んでると言っても過言ではない、うちのサークルの部長だ。
そりゃ、部長は『おんなのヒト』ではあるが。
ゆめは、ほっとした顔をして、でもやっぱり泣きそうに顔をゆがませた。
「あたし、カノジョらしくない」
は?
「だって、なんにもできない」
涙を零すまいと、乱暴に両手で眼を押さえて、
「差し入れひとつも満足にできないし、ごはんもお菓子もまともに作れない、いつまでだって三哉兄ちゃんにお世話してもらわなきゃダメで」
ゆめは詰まった息を吐き出して、それからもう一度、
「あたし、カノジョらしくない」
自分の頭を乱暴に掻いて、オレは今日何度目かのため息をついた。
「『彼女らしいこと』をしてもらうために、付き合ってるわけじゃない」
言わなきゃ判んないのか?
――あたしって、三兄のなに?
あの日、花見の帰り道、そう訊かれたことを思い出す。
言わなきゃ、判んないのか。
そうだよな。
オレも、ゆめにスキだスキだと言われ続けても、ずっと本気にしてなかった。その言葉にどういう意味が含まれているのか、ちっとも理解していなかった。
相手がどう思っているかなんて、言わなきゃ伝わらないよな。
「いつもどーり」
うつむいたゆめの頭に手を置いて、
「我が侭言って、すぐ機嫌ころころ変えて、手がかかって」
ゆめが顔を上げる。今は暗くて見えないけれど、多分涙で真っ赤になっているんだろう瞳が、オレを見る。
「それでいいよ。それで、」
それで――
するり、と滑り落ちそうになった言葉が、あまりにも恥ずかしいセリフだと気付いて、言いよどむ。
でも、
「それで」
息を吸う。
言わないと、ゆめには伝わらないっていうんだから、
「それで、ずっとオレの傍に居てくれれば」
やっぱり面と向かってゆめの顔を見ていられなくて、照れ隠しにゆめの頭を抱き寄せた。
「オレは、すげえ満足」
ふたりともびしょ濡れで川に落ちて座り込んだままで、本当一体何をやっているんだか。
まったく情けない。
夜遅くにゆめひとりで出歩いた危険を許したわけじゃないけど、それもオレへ対する気持ちだっていうんだから、仕方が無い。
もう二度としない、って約束するなら、今回だけ大目にみてやろう。
茶化して言うと、ゆめの、今度は心からのごめんなさいが聞こえた。首に抱きつかれたので、ぽんぽんと背中をなでると、泣き出したようだった。
こんな風に泣かれたことは、ゆめの世話をやいてきたかれこれ15年、一度もなくて、心底困る。
困るけど、嫌じゃない。
嬉し泣き、だよな?
なんだかんだいって、オレはゆめに弱い。
オレのために頑張ったゆめを、結局はかわいいと思ってしまうんだから。
end