その答え
ピンポン!
叩くように鳴らされた呼び鈴に、あたしは目を開けた。
フローリングの廊下が、あたしの体温でぬるくなるほど、あたしはここに倒れていたらしい。らしいというのも、今、この瞬間まで気を失っていたみたいだからなんだけど。
ピンポンピンポン!
イラつくように再び呼び鈴が鳴る。
誰だろう。
寝ぼけた頭でぼんやり思う。
頭が重い。
ダルイ体を動かして、頭に手をやろうとして、あたしは自分が携帯電話を開いたまま握っていたことに気づいた。
どうして。
そう。電話したんだ。誰かに助けて欲しくて、だから――
そこであたしは我に返った。
どうして助けて欲しかったの。
ズクン、とお腹の下の方が痛みを訴えた。携帯電話を握ったまま、あたしはお腹に腕を回して体を丸めた。
血が出ている。
太ももを伝ってぬるりと滑り落ちて、床にぽたんとつく。
おそるおそる太ももを触ってみると、かさりと血が乾いた感触と、その上に血がついている嫌な感触がした。
「……いや」
目を閉じられなかった。
指についた黒っぽい赤い血を、あたしは見た。
ぐい、っと肩をつかまれ、あたしは無理矢理顔を上げさせられた。そこにいたのは――
「ゆめ」 「ゆめ」
肩をゆるく揺らされて、あたしは目を開けた。
「着いたぞ」
言って、三哉兄ちゃんが運転席から降りた。あたしはぼんやりと、その後姿を目で追う。後部座席のドアが開いて、置いてあったあたしの鞄と三兄の鞄を三兄がとった。あたしの視線に気づいたのか、三兄が、後部座席に乗ってきて、あたしの傍まで来た。ひんやりした三兄の手を額に置かれて、あたしは自然と目を閉じる。
「大丈夫か?」
あたしは、うん、と惰性でうなずく。
三兄が息を吐いた。手が離れる感触がしてあたしが目を開けると、三兄は車から降りて、助手席のドアを開けに来てくれていた。
「ほら」
三兄が抱き起こしてくれて、なんとか外に出る。
目の前には、あたしの住んでるマンションのエントランスがある。三兄に車に乗せてもらった後の記憶がないから、きっと寝ちゃっていたんだろう。なんだか夢見が悪かった気がするけれども。
*
自分の部屋に着いて、三哉兄ちゃんにパジャマを渡されて着替えた。制服をハンガーにかけるのも面倒で、ぱたん、とベッドに倒れこんでしまう。
まだ窓の外は雨。
だからか、今がいったい何時なのか、感覚がつかめない。
ぼんやり天井を見る。
特に変わったことがあるわけじゃないけど、なんとなく。
三兄は、いったん家に帰る、と言って出て行ったから、まだしばらく戻ってこないんだろう。
あの車、初めて見たけど、誰のだったのかな。それに大学、大丈夫なのかな。あたしのせいで、サボらせちゃったんじゃないのかな。
益体のないことばっかり、考えてしまう。
ピンポン、と呼び鈴が鳴った。ほどなくして、ガチャリ、という鍵の回る音、三兄の足音が聞こえてくる。
コン、とあたしの部屋のドアをノックして、でも返事を待たずにドアが開いた。
「ゆめ、なんか食ったか」
三兄が部屋に入ってきて、脱ぎ散らかされたあたしの制服をきちんとハンガーにかけてくれる。いつもはちゃんとしてるのよ。いつもは。
お弁当を持っていかなかったの、気付いたんだろうな。わざとじゃないんだけど。
「パン食べた」
いくつ、と三兄が言うので、ひとつ、とあたしは返した。キレイな顔が、ムッ、てちょっとしかめっつらになった。
「寝てろ、なんか作ってくる」
すぐに出て行ってしまって、それよりも一緒にいて欲しかったなあ、なんて思いながら、あたしは掛け布団を引き上げて頭までかぶった。
目を閉じて、キッチンから聞こえる音に耳をすませていたら、あたしは眠ってしまったようだった。
*
ふと目が覚めて、今が何時なのか判らなかった。いったいいつ眠ってしまったのだろう。どうやって着替えたのか、ベッドに入ったのか、それすら記憶にない。外からはまだ雨の音がしている。
コン、と扉をノックする音がして、あたしはビクッと体を竦ませた。
だって、ここには誰もいない。
お母さんも、お父さんも、誰もいない。あたし以外、誰もいない。
だから、怖くて怖くて、あたしは誰かに助けて欲しくて電話したのだ。
誰かに。
誰に。
「ゆめ」
声に。
驚いたのか、安心したのか、よく判らない。ただとにかく、涙があふれて仕方がなかった。
ドアを開けて入ってきた三哉兄ちゃんは、泣いているあたしを見て驚いて、いつもからは考えられないぐらい、優しく頭を撫でてくれた。
三兄のTシャツをつかんで、あたしは一生懸命泣いた。しゃくりあげて、怖かった、って言って、三兄にすがりついて泣いた。
三哉兄ちゃんは、雨のにおいがした。
*
「あ、悪い、起こしたか」
ぼんやり目を開けると、あたしの勉強机に三哉兄ちゃんが座ってた。暗い部屋の中で、机のライトだけつけて、ノートパソコンを開けている。
今、何時だろう。まだ雨が降っているのは判る。
「夢、見てた」
あたしが言うと、なんの、と三兄が返してきた。優しい声。こういうときしか聞けない贅沢な声。
「ねえ、あたし、三哉兄ちゃんのこと、スキだよ」
あたしが言うと、三兄が、目を丸くした。そして、そうだな、と低い声で言った。
やっぱり、判ってないなあ、とあたしは心の中で苦笑する。
「夢ね、初めて生理が来たときの、だった」
あのとき、あたしはとにかくパニックに陥っていて、自分にそんなものが来るなんて実感がなくて、いったいなにが起こったのか判らなくて、ただ心細くてどうしようもなかった。
そんなとき、助けてくれたのは三兄だった。
「あのときも、雨だったの、覚えてる?」
覚えてるよ、と三兄が言う。椅子から立ち上がって、あたしのベッドの端に座る。あたしはその顔を見上げて、
「三兄、制服ずぶ濡れだった。いつもは怒ってるみたいな顔しか見せてくれなかったくせに、あのときだけ、すごく心配そうな顔してた」
あたしがクスクス笑うと、三哉兄ちゃんがバツが悪そうに顔をしかめた。別に怒ってたんじゃねえよ、と小さく言う。
知ってるよ。
「あたしのこと、心配だったんだよね」
なんでもダメっていうのも、ちゃんと自分でやれって怒るのも、全部あたしのこと、考えてくれてたからだった。
息を切らせて制服をずぶ濡れにして、あたしのために来てくれたとき、あたしは本当にようやく、そのことに気づいた。
「三兄は、あたしのことがキライなんじゃないんだ、って気づいたんだよ」
三哉兄ちゃんが、目を見開いた。
三兄の口が開く。なにか言いたそうにちょっと動いて、また閉じる。あたしはそれをじっと待つ。そして、ようやく搾り出すように、三哉兄ちゃんは、嫌ってたのはゆめだろ、と言った。
ああ、そっか。
あたしは今朝、三兄に言われた意味を理解した。
『オレが嫌いか?』
「嫌ったことなんか、一度もないよ」
三兄を嫌ったことなんか、あたしは本当に一回もない。
ただあたしは、子供だったのだ。
言葉に出して、あたしのことをスキだと言ってくれなければ、理解できなかったのだ。
『生理』なんて男の子には、一生理解不能なものだと思う。
だって、男の子には来ないものだし、男の子には存在しない器官の発達によって起こることだし、女の子は隠すものだし。
それでも、三哉兄ちゃんは、必死にあたしを助けようとしてくれた。
廊下で倒れてたあたしをお風呂に入れてくれて、着替えさせてくれた。泣いて自分ではまともに動かない子を、見捨てずにちゃんと介抱してくれた。家には当然なにも用意されてなかったから、生理用のナプキンとショーツを買いに行ってくれた。
「恥ずかしかった?」
あたしが、お店で買ったときのことを聞くと、三哉兄は顔をしかめて、
「男子高校生には、ハードルの高い試練だったよ」
と、茶化した。
あたしは、嬉しくなって笑った。
きっと三哉兄ちゃんは、もし、また同じことがあったとしたら、同じようにあたしを助けてくれるだろう。
「三兄はね、きっとあたしがダメでも見捨てないんだって」
ゆめは病気になったんじゃない、女になったんだ。
泣いているあたしに、三兄が言ってくれた。
それでようやく、あたしは自分が子供を生める体になったのだと理解した。教科書の内容と、自分の体に起こったことを結びつけることができた。
「ずっと嫌われてると思ってたから、三兄があたしのことスキなんだって思ったら、すごく嬉しくて恥ずかしくて」
夜、目が覚めて、三兄がずっと傍にいてくれたんだと判ったら、涙が出て止まらなかった。
多分、あたしはあのとき、三哉兄ちゃんに恋をした。
――違う。
恋をしていることに気づいたのだ。
それから毎日、あたしはずっと三兄に恋し続けている。
「だからね、今は、昔よりも、昨日よりももっとスキ。ダイスキ」
今までも、これからも、三兄のことをキライになるなんてことは、あたしの中では絶対にない。きっと死ぬそのときまで、死んだあともずっと、三兄のことはスキなんだろう。
それは、予想じゃなくて、確信。あたしにだって、どうしようもできないこと。
三兄に嫌われても、どんなひどいことをされても、例え殺されたって、スキでいることをあたしはきっと止められない。
三哉兄ちゃんが、ゆっくりあたしの頭を撫でてくれる。あたしは嬉しくて、猫みたいに目を細めた。
本当は、あたしのことスキだってこと知ってる。
本当は、あたしのこと甘やかしたいの知ってる。
そうしないのは、三兄の優しさ。そして弱さ。そして、強さ。
だから、あたしのこと信じて。
「あたしが三哉兄ちゃんのこと、スキだっていうの、信じて」
三兄が、判った、とうなずいた。でも、その顔は、本当には判ってないよね。信じてない。
「三兄、あたしのこと『キライじゃない』よね?」
三兄が、あたしの髪を撫でる手を止めた。あたしはその手に自分の手を重ねた。
「絶対、キライにならないよね?」
それは、あたしの中の確信。
あたしが、死んでも三兄をスキなのと同じぐらいの決まりきったこと。
だから、
「それと同じぐらいなの」
あたしが三兄をスキだってことは。
三哉兄ちゃんは、途端、泣きそうな顔をした。すごい殺し文句、そう言ってあたしを抱きしめた。
ねえ、本当に本当なの。信じてね。
あたしの答えは、一生変わらない。
end