その解き方
知識はあった。
小学生のときも、中学生になった後も、保健体育の授業でならったし、早い子は小学生のうちに来ていた。
でも、なんでも経験してみないと、本当には判らない。
そのことを身をもって知ったのは、初めて生理が来たあの日だった。
*
「頭イタイーお腹イタイー」
ついでに心もイタイ。
机に突っ伏してあたしがうめいていると、頭をペットボトルの底で小突かれた。ちろりと上目づかいで前を見ると、水嶋(みずしま)さんがうっとうしそうに薬のタブレットを、お茶の入ったペットボトルとともに差し出してきた。
「ウザイ。飲め」
簡潔に言われ、ありがとう〜、と言って、あたしはタブレットをお茶で喉に流し込んだ。
お昼ごはんを食べ終わったお昼休み。いつもは外へ、サッカーだバスケだ、って走っていく男子も、今日ばかりはおとなしく教室にいる。体育館は、お昼休みは使用禁止なのだ。
窓の外は相変わらず雨。今年の梅雨は長いびいている。
雨が降ると頭が痛い。これは小さい頃から変わらない。
「日吉の大好きなミツヤ兄ちゃんはどうしたのさ」
水嶋さんにペットボトルを返すと、そう言われた。
「クスリもお茶もお弁当も持たせてくれる、甲斐甲斐しい兄ちゃんじゃなかったっけ?」
ついでに生理用ナプキンもね。
さすがにあたしはそれは口に出さなかったけれど、水嶋さんが不思議がるのももっともだ。
あたしは今日、痛み止めの薬はおろか、お弁当すら持ってこなかった。
正確に言うと、三哉兄ちゃんが用意してくれなかったから忘れてきたのだ。情けない。だから、お弁当は購買のパン。三兄のお弁当じゃないなんて、年に1回あるかないかなのに。
今朝の三哉兄ちゃんはヘンだった。
機嫌が悪い、っていうのとはちょっと違う。なんだか落ち込んでるみたいだった。
あたしが原因なのかな。
なんとなく、そう思う。ただの直感だけど。
ヘンなこと訊かれたし。
『オレが嫌いか?』
そんなわけないのに。判ってないなあ。
「うー」
お腹の中をぎゅうっとしぼられるような感触がして、あたしは再び机につっぷした。
薬を飲んだって、すぐに痛みがひくわけじゃない。しかも、ちょっとおさまったかな、と思うと強い痛みが来たりする。波状攻撃だ。全戦全敗、いつもノックアウト。
あたしは生理痛が重い方らしい。らしいというのは、他の子の痛みが判らないからなんだけれど、保健の先生が『日吉さんは生理痛が重いのねえ』って言ってたから、そうなんだろう。
あたしの場合、生理が来ると前日から調子が悪くなって、1日目2日目と生理痛に悩まされて、終わり1日がまたダルイ。うっとおしいけど、こればっかりは仕方がない。それに、毎月この1週間だけは、三哉兄ちゃんは無茶苦茶甘えさせてくれるから、損得勘定でいくなら、プラマイゼロ? ちょっとプラスかなあ。
「これって、眠くなる薬?」
あたしは机につっぷしたまま、タブレットの入っていた銀紙のケースをかさかさ触る。
水嶋さんは、短くショートにした髪をちょっと揺らして、
「眠くならない痛み止めって、効かないと思う」
と、偏見を言った。
でも確かに。薬で眠くなって寝て起きて、そしたら痛みがひいていた、っていうのはよくあることだ。人間寝ればなんでも治るのかもしれない。
水嶋さんとは、高校に入ってから仲良くなった。たまたま席が前後だったおかげなんだけれど。水嶋さんはサバサバしていて、思っていることがすぐ顔に出て、でも、それが尾をひかない。
その印象とは裏腹に、実は用意周到な人で、水嶋さんに聞くと大概のものは持っていたりする。例えば痛み止めの薬とか、今日使う予定のない辞書とか、折り畳み傘とか。
そういうところがちょっと三哉兄ちゃんと似てるかなあ。
「日吉?」
水嶋さんの声が、どこか遠くから聞こえるような気がする。
机につっぷしていたら、あたしは眠ってしまったらしい。
*
トイレットペーパーが赤かった。
中学校から帰ってきて、制服から部屋着に着替えて、とりあえずトイレと思って――そこまではいつも通りだった。
拭いたときに、いつもと違う、ぬるりとした感触がトイレットペーパー越しにして、あたしは赤いものがついたトイレットペーパーを見た。
あたしのそこから、血が出ていた。
「なに?」
言った自分の声がかすれていた。
急に怖くなって、水も流さずトイレから飛び出した。ジーパンもショーツもおろしたままだったから、足をとられてみっともなくこけた。
ずくん、とお腹の中が動いた。
ついで、今まで感じたことのない痛みがあたしを襲った。
お腹のあたりの内臓をしぼられるような痛み。こんなのあたしは知らない。
病気だ。
あたしは病気になっちゃったんだ。なにか知らない怖い病気。
どうしよう。どうしたらいいの。
床に倒れたままあたしは震えていた。怖くて、怖くて仕方がなかった。
ふと、こつん、とあたしの肘になにかがあたった。恐る恐る見ると、ジーパンのポケットに入れておいた携帯電話だった。転んだときにポケットから落ちたらしい。
1年のほとんどを、あたしの両親は日本で過ごさない。だから、あたしがどこにいても繋がるように、あたしは小学生のうちから携帯電話を持たされていた。
あたしは慌ててそれにしがみついた。
パチンと折りたたみ式の携帯電話を開く。相手を誰とも選ばず、とにかくボタンを押す。すぐにプルルルル、って発信音が鳴って、あたしは慌てて耳に携帯を押し当てた。
誰でもいい。
誰でもいいから、助けて欲しかった。
ふと見ると、床の、あたしのそのあたりに血がついている。まだ、血が出続けている。
お願い。
あたしは怖くて目をつむった、そのとき。
『もしもし』
男性にしては少し高い、女性にしては少し低い、ハスキーな声が電話口から聞こえた。
あたしは泣いていた。
電話から聞こえた声にひどく安心して、声も出せずにしゃくりあげた。
電話口から、少しいらだった風に再度、もしもし、と話しかけられた。なにか言わなきゃ。言わないと、切られてしまう。
そう思っても、あたしの口唇は震えていて、まともに声が出せない。声が出せない、相手に伝えられない――見捨てられてしまう。
『……ゆめ?』
その声が、あたしを呼んだ。
あたしは口を金魚みたいにパクパク開けて、なんとか、うん、って言った。
『どうした? なにかあったのか?』
電話口の声が、少し心配気にひそめられた。
あたしはなにも答えられなくて、しゃくりあげた。
『今、家か? すぐ行くから待ってろ』
ぷつん、と通話が切られた。それでも、あたしは携帯電話を耳に押し当てたまま、泣いていた。
ずっとそこであたしは待っていた。
*
トン、と机を指で叩かれて、あたしはハッと目が覚めた。
目線をあげると、水嶋さんが眉をひそめてあたしを見ていた。
「5限、始まるよ」
うん、とあたしはノロノロと体を起こす。起こしてくれてありがとー、とぼんやりと言うと、どういたしまして、と水嶋さんが答えた。
「なんか……夢見てた」
あたしが言うと、水嶋さんはちょっと肩を竦めて、
「器用なヤツだな」
と言った。そして、なにを思ったのか、ずいっと体を乗り出して、あたしの顔を見る。
「なに」
頭が痛い。
痛み止め飲んで、寝て、そうしたらすっきり起きれるハズなのに。
「日吉、帰ったら?」
あたしは余程ひどい顔色をしているのだろう。水嶋さんがそういうことを言うぐらいだから。
でも、あたしは首を横に振った。
「ひとりで帰れる自信ない……」
頭痛い、お腹痛い、体ダルイ。もうなんかダメダメってカンジ。ついでに夢見も悪かった。
でも、水嶋さんは、あたしの机の横にかけてある鞄をとって、あたしに押し付けてくる。
「ミツヤ兄ちゃん、とやらに迎えに来てもらえばいいんじゃないの?」
そんな顔で後ろで呻かれながら、塗り壁の授業なんか受けたくないっての、とまで付け加えてくる。塗り壁ってのは、英語のおばさん教師のことだ。あんまりにも厚いファンデでひびわれそうだから、そう呼ばれている。
あたしは学校指定の鞄を抱えながら、うー、とうめく。
ほら、と水嶋さんは、あたしの鞄のポケットから、携帯電話を勝手にとった。
「とりあえず電話してみなよ」
水嶋さんにホラホラと急かされて立たされ、あたしは背中を押されながら教室を出る。
一応学校としては携帯電話は禁止なので、電話するなら隠れてしなきゃならないんだよね。
抵抗する気も起きないあたしは、珍しくお節介な水嶋さんに連れられて、階段下の用具置き場へと行く。
「でも、三哉兄ちゃんだって、今日は学校のハズだし」
迎えに来てくれるとは思えない。
三兄、意外と真面目だから、サボリとか許してくれないし。
でも、水嶋さんは、この期に及んでまだグズグズ言うか、とあたしを睨む。
仕方ないなあ。
あたしは携帯電話をパチンと開く。
リダイヤルの一番上、三哉兄ちゃんの携帯電話の番号を選んで、通話ボタンを押す。すぐに、プルルルル、って通話音が鳴る。
水嶋さんが壁になって、あたしを廊下を通る人から見えないようにしてくれてる。その顔は、少し心配そうにあたしを見つめている。
判ってる。電話してるってば、今。
そう。仕方ない、仕方ないからしてるんだからね。こんな時間に電話して、迷惑だっていうの、あたしちゃんと判ってるからね。
あたしは、まだ出ない、電話の向こうの相手に心の中で勝手に弁解した。