その解き方2
煙が天井のあたりをただよう。
最近とみに喫煙家は肩身の狭い思いを味わわされていて、駅もカフェも大学も、とにかく『喫煙場所』が設けられている。煙草なんぞ吸うやつは、寂しく集まってコソコソと吸いやがれ、というわけだ。喫煙所は学祭で使うようなパネルの仕切りで囲われて、天井までその高さが足りないからってダンボールで補強されている。3畳ほどしかないスペースに、真ん中に灰皿がひとつ、パイプ椅子が3つ。ドアはないから、パネルを押しのけて出なければならない。本当にひどい扱いったらない。もう少しまともな場所を用意したって、バチは当たらないだろう。多分。
オレは口にくわえていた煙草を灰皿に押し付けて、もう一本取り出して火をつけた。
一ヶ月に1箱も吸わないオレが、本日これで2箱目を空にした。まったく、判りやすくて仕方がない。
『喫煙所の改善』なんてそんなくだらないことを考えるあたりで、自分は落ち込んでいるのだなあ、とオレは思ってしまう。
客観的に自分を見るのは、これは癖だ。そうでなければ、オレは自分の気持ちにブレーキもアクセルもかけられない。自分の気持ちに考えをとられて、なんにもできなくなってしまうのだ。飯を作ることも、風呂に入ることも、寝ることも、うまくできなくなってしまう。すでに何度も経験済みだというのが情けない話だ。
さて、じゃあ、どうして落ち込んでいるのか、『客観的に』自分を見てみよう。
そんなこと、すぐ判る。
オレは、ゆめに嫌われていたことに落ち込んでいるのだ。
『嫌われている』わけではないところがミソだ。過去のことを悔いたってどうしようもないだろうに。後悔先に立たず。当たり前だ。その時はその時で、精一杯『正解』を選んで生きているつもりなんだから。
だから――判っている。落ち込んだってなんにもならない。
なんにもならないことに、落ち込んでも仕方がない。
仕方がないんだ。
オレは安いパイプ椅子に座ったまま、ぼんやりと天井を見上げる。
喫煙所にはオレひとり。大学内でもこんな辺鄙なところ、用がなければやって来る物好きもまずいない。そんな物好きはオレひとりで充分だ。さもなくば、有難くも鬱陶しい鎌田(かまた)ゼミにつかまることになるだろう。レポート漬けは誰も喜ぶまい。だから、この喫煙所もこんな状態のままなんだろうなあ。
天井近くに横に細長く切り取られた窓の外は、未だ雨。
ゆめはちゃんと学校へ行っただろうか。弁当は持っただろうか。生理用ナプキンは鞄に入れただろうか。痛み止めを薬箱から取っただろうか。――無理をしていないだろうか。
目を閉じた。
そんなことを心配するぐらいなら、いつものようにかいがいしく世話をしてやって、駅まで一緒に行ってやれば良かったんだ。
逃げなければ良かったんだ。
情けない。
本当に情けない。
顔が女のようだからって、中身まで女々しくある必要はあるまいに。
「早坂くーん」
仕切りパネルの向こうから、声がかかった。
「休憩はまだ終わらないかい?」
件の鎌田教授だ。論文大好き、書くのも読むのも大好き、大学生の稚拙なレポートも大好き、の変態教授だ。うちの大学の教授連の中では一番若く、一番の変人として知られている。おかげでゼミ生もオレひとり。まあ、気楽だけどね。
「終わって欲しいんですか?」
仕切りパネル越しに、オレは聞き返す。教授は煙草の煙が大の苦手なので、中には入ってこないのだ。つまり、オレが喫煙所から出ない限り、オレは自由だ。矛盾しているのは重々承知だが、今日は教授の論文に対する数時間にもわたる高尚な解説は聞きたくない。
仕切りパネルの向こうが黙る。諦めたかな?
「早坂くんは、実は気難しいねえ」
教授にため息とともに言われ、ああ的を得ているな、と思う半分、あんたに言われたくない、ともう半分で思う。
オレは怒りっぽいさ。そんなの判ってる。だから、他人に当り散らさないようにしてるんじゃないか。
と、そのとき、携帯電話の簡素な呼び出し音が鳴った。
甘えられるのは嫌いじゃない。
家事をするのは嫌いじゃない。
勉強をするのは嫌いじゃない。
サークル活動は嫌いじゃない。
変人鎌田教授は嫌いじゃない。
一臣と二葉兄は嫌いじゃない。
世話を焼くのは嫌いじゃない。
好きになるのは嫌いじゃない。
ゆめのことは、嫌いじゃない。
自分の卑怯さ加減に呆れてしまう。
全部、好きだと認めるのが、恥ずかしいだけだ。
ともすればみっともなく取り乱してしまうだろう自分が、情けないだけだ。
『あの、あのね』
ゆめの困ったような、そしていつもより元気のない声を聞いて、オレは煙草を灰皿に押し付けた。電話口の向こうから聞こえるざわめきと、時間からいって、昼休みだろうか。
『あの』
ゆめが珍しく口ごもっている。
ついで、日吉、と呼ぶ女の子の声と、小さく、判ってるよう、と泣きそうに言うゆめの声が伝わってくる。
「どうした?」
早坂くん? とパネルの向こうから声がするが、こちらは無視する。
『……みつにい』
精一杯といった感じでゆめが言った。
電話がかかってきた時点で、用件はおおよそ見当がついていたから、オレはただ、
「判った」
と言った。そして、外は雨が降っていることを思い出して、
「屋根のあるところで待ってろ。着いたら電話する」
うん、という返事を聞いて、通話を切る。パチン、と折りたたみの携帯を閉じて、ひとつため息。
パネルの仕切りをひとつ押しのけて、そこに立つ教授にオレは言った。
「教授。車借してください」
*
雨の日だった。
昼ごろから降り始めた雨は、勢いを増すことも減らすこともなく、しとしとと降り続けている。
朝の天気予報を見て、ぬかりなく折り畳み傘を持ってきていたオレは、人気のない生徒玄関で靴を履き替えていた。帰宅部が帰るには遅く部活組が帰るには早い、中途半端なこの時間は、学校の中も生徒玄関も、シン、としていて良い。わざとこの時間に合わせて帰るぐらいには、気に入っていた。今日バイトがないことを感謝しながら、傘を広げる。
と、制服のポケットの中で振動があった。携帯電話のバイブレーションだ。
急ぎ足で玄関を出て、そこここに水溜りのできたグラウンドの脇を通り過ぎて、校門の外に出る。
うちの高校も、他の高校と同様に携帯電話は禁止だ。表向きは。まあ、バイトしてる奴や、親に持たされている奴は、当然学校に持ち込んでいるわけだが。
そうして、ようやくオレは携帯電話をポケットから出す。ディスプレイに表示された名前を見て、首を傾げるが、しつこく鳴り続ける電話の通話ボタンを押す。
「もしもし」
ゆめだ。
ゆめがオレに電話をかけてくることは、ほとんどない。
なにせ、帰ったら会うのだ。ゆめが今日の夕飯と明日の弁当をいらない、と言えば会わないだろうが、まずそんなことはない。
夜には絶対会うのだ。わざわざ電話をかけてくるほどのことなど、ゆめとオレの間にはないわけだ。
それに、ゆめはオレを嫌っている。
電話をかけてくる理由が判らない。
オレが耳を押し当てている電話の向こうは、静かだ。ゆめのだろうか、呼吸の音がかすかにするぐらいで、他にはなにも音がしない。
誤って通話ボタンでも押してしまったのだろうか。迷惑な。
思って、切ろうとしたとき、かすかにしゃくりあげるような――泣いているような声がした。
「……ゆめ?」
オレが問うと、しゃくりあげる声が大きくなった。なにか言おうとしているのか、う、とも、あ、ともつかないうめき声も聞こえてくる。
泣いている。
はっきり、ゆめが泣いていることが判った。
「今、家か? すぐ行くから待ってろ」
オレは電話を切って、傘なんか放り出してそのまま走り出した。
*
レポート3つで車を借り受けて、オレは車を走らせていた。
昼間だから空いているだろう、というオレの目論見はあっさりと外れた。街は、土曜の朝のようなゆるい通勤ラッシュを思わせる混み具合だ。
進路変更。多少回り道になるが、車どおりのない裏道を使うこととする。対面から車が来ると、他人の家の敷地に乗り上げて通過しなければならない、嫌な道だが、背に腹は変えられないだろう。
あの日も、オレは走っていた。車と徒歩という差はあれど、全速力だったことに変わりはない。
あれが3年前だなんて、早すぎる時間の流れに、オレはいつも取り残されている気分になる。
あの日、ゆめにいわゆる初潮というものが来た日から、3年。
女の子の一大事に高校生のオレがあたふたした日から、3年。
あの日から、目に見えてゆめは大人になった。しとやかになった。
当たり前だ。女性になったのだ。
ゆめの通う、オレの母校の高校の校舎が、道の向こうに見えてきた。幸いにも、対向車は現れず、道を行く迷惑な歩行者も自転車もなく、スムーズに来れた。といっても、ゆめの電話を受けてから、もう30分も経過しているが。
舌打ちをしながら、校門を少し過ぎてから、車を止める。通り過ぎる際、生徒玄関の柱の影にしゃがみこむゆめが見えた。あんなところで待っていやがって。保健室で休ませてもらっていればいいものを。
携帯電話を開くのももどかしく、ゆめに電話をかける。プツン、と出ずに切られる。校内で電話に出るわけにはいかないからだろう。
ゆめが傘を持っているのかどうか心配になって、オレは傘を持って車から降りる。校門まで行くと、とぼとぼといった風情でゆめがピンクの傘を揺らして歩いてきていた。さすがに傘は持っていっていたらしい。そりゃそうか。朝から降っていたからな。
「ゆめ」
ゆめが、顔を上げる。
なんて顔色だ。よくこんな状態で学校に行く気になったな。
オレは心の中で舌打ちして、朝ちゃんとゆめの世話をしてやらなかった自分を罵った。