不敵な美人
あ、と日吉が言った。
周りが声を上げていたから響かなかったけれど、私は隣りに座っていたから聞こえた。慌てて口を押さえた日吉が、私の視線に気づいて、首を横に振る。
なんでもなくは、無いんじゃないか。
そう思ったけれど、たとえアマチュアとはいえ、演劇鑑賞中に問い詰めることは憚られて、取りあえず舞台上に視線を戻した。
*
「学園祭?」
話を振ると、日吉が首を傾げた。
私はオレンジジュースのパックのストローから口を離して、
「兄貴がいるんだ。屋台のタダ券もらったし、行かない?」
私が日吉の机の上に並べたのは、兄貴の通ってる大学の学園祭のチケットだ。院生の兄貴が、後輩やら友達やらから、食い物の屋台のタダ券を色々もらったらしい。俺は多分研究でそれどころじゃないから啓子行けば、と昨日くれたのだ。
そういうことはもっと早く言え!
というのも、学園祭の日にちが明日の金曜からなのだ。
「まあ、明日は無理としても、明後日の土曜とかさ」
部活は午前中で終わりだから、午後からなら空いている。ひとりで行くのもなんだし。
そう言って日吉の顔を見ると、チケットを凝視して、日吉が固まっていた。
「日吉?」
呼びかけて、目の前で手を振ると、ようやく我に返ったようで、日吉が、
「な、なに?」
と返してきた。
……なに、って、
「そりゃ、こっちのセリフ。どうしたの?」
う、と日吉が言葉に詰まる。本当に一体なんなんだ。何か変なものでも食べただろうか? でも、昼の弁当は、いつものごとく、日吉のカレシのミツヤ兄ちゃんのお手製だったハズだけれど。
と、『ミツヤ兄ちゃん』というところで、日吉がびくっと体を強張らせた。
訳が判らず眉を潜めると、日吉が困ったように、
「この大学」
チケットに書かれている大学名を指差して、
「……三哉兄ちゃんの大学」
え?
「あ、そうなんだ。じゃあ、ミツヤ兄ちゃんと行くよね。ごめんごめん」
それは知らなかった。兄貴と同じ大学とは、世間は狭い。と言ったって、学年も学部も違うだろうけれど。
チケットを片付けようとすると、日吉が私のその手を掴んできた。日吉の必死の形相に、今度は私が固まる。
「な、なに?」
「あのね」
日吉が睨みつけんばかりに私を見つめる。今日の日吉はちょっと、いや、だいぶ変だぞ。
「あたしも一緒に行ってもいい?」
*
なんでも、日吉はミツヤ兄ちゃんから、学園祭の『が』の字も知らされていなかったらしい。それも大学に入ってから今までずっと。
『それは、来て欲しくないってことだよね』
と、日吉はしょんぼりして言った。
本当は行ってみたい。でも、呼ばれてもいないのに。
そんな風に思っていたらしく、チケットを見たところから、私の話は全然聞いていなかったらしい。
まあ、そもそも一緒に行こうと誘ったのは私の方だし、あわよくば噂の『きれいなミツヤ兄ちゃん』が見てみたいという好奇心もある。
まあ、こんな広い校内、どこにいるか判っていなければ無理だろうけれども。
考えを止めて、私は舞台に意識を戻した。
大学の演劇サークルがやっている舞台らしい。これもタダ券の中に入っていて、時間も都合良かったし、どんなものかと思って日吉と一緒に入った。
それにしても、あの人美人だなー。
私はため息を吐いた。
男装の麗人といった役柄の人だが、本当にこんな人がいるのだな、と思うぐらい美人だ。
顔だけではなく、立ち居振る舞いというのか、立ち姿というのか、オーラが違うというのか。
さっきの日吉の『あ』のとき、周りが声を上げたのは、この人が理由だ。観客はやはり大学関係者が多いらしく、わざとらしく『待ってました!』とか、『よっ、今日も美人だね!』とか叫んでいた。その声を後押しするように、他の観客からは感嘆の息。
そういえば、『はやさか君』とも呼ばれていたっけ。
ん? 『君』?
「あっ!」
思わず叫んでしまって、慌てて私は口を押さえた。日吉がびっくりした顔をして、私を見た。他の周りの人も私を見たので、すいませんすいません、と小声で平謝りに謝った。
そして、思わず頭を抱える。
そりゃあ、『あ』だよなあ。
私の予想が当たっているならば、日吉は相当驚いただろう。
とにもかくにも、劇自体は面白く、アマチュアだと舐めていた分、大変楽しめた。
*
客席から出ると、ロビーの端で役者たちが衣装そのままの姿で、客たちに礼を言っていた。募金箱みたいなものを持って、カンパも募っているらしい。チケット代は見てみると300円で、実際に儲かるものではないのだろう。衣装代や大道具代だけでも大変そうだ。
役者たちの中には、当然例の美人『はやさか君』もいた。
日吉が私の半歩後ろに、隠れるようにしている。
「日吉」
呼ぶと、おそるおそる日吉が顔を上げた。心底困ったような、例えていうならハムスターのような顔をしている。
私は『はやさか君』を指差す。
「いいの? 行かなくて」
ちょっとやそっとじゃ近づけなさそうだけれども。
あれだけ美人なら当たり前だろうが、物凄い人気で、『はやさか君』の傍はちょっとした人だかりになっている。まあ、それも徐々に引きつつはあるのだけれど。
日吉はふるふると首を横に振る。
「本当に? だって、あの人、『ミツヤ兄ちゃん』なんでしょ」
言うと、日吉は、う、とうなって、またうつむいた。そして、ぼそぼそとなにやら弁解じみたことを言い出す。
「遠くからちょっと見れたら嬉しいな、と思ってただけで、見つけようと思ってたわけじゃないんだもん。まさか演劇部だとは思わなかったんだもん」
それに、
「来てるの知ったら……怒られる」
声がどんどん先細りになっていく。
でもさ、日吉。
「もう無理だと思うよ」
私がため息混じりに言うと、え、と日吉が顔を上げた。と、バッチリ『はやさか君』こと『ミツヤ兄ちゃん』と目が合ったようだ。
今更無駄だっていうのに、日吉が慌てて私の後ろへ隠れる。そりゃ、私は日吉よりも身長でかいけど、完全に隠れるのは無理だって。
困って、というよりは、半分以上面白がって、肩を竦めてミツヤ兄ちゃんへ視線を送ると、ミツヤ兄ちゃんはため息ひとつ、こちらへと歩いてきた。
日吉が明らかに体を強張らせて、私の服の裾をつかんでいる。私は、周りの好奇の視線がちょっと痛いよ。
ミツヤ兄ちゃんが、私の目の前で止まる。
うわあ、本当にきれいな人だなあ。美人だー。そりゃあ、日吉がきれいきれいと連呼するはずだ。
真剣に感心して、多分不躾にじろじろと私は眺めてしまった。
けれど、ミツヤ兄ちゃんはどうやらそういう視線には慣れているのだろう。眉ひとつ動かさず、
「こんにちは。多分、水嶋さんかな、と思うんだけど」
男の人にしては高い、女の人にしては低いハスキーな声で、ミツヤ兄ちゃんが言った。私は慌てて頭を下げて、
「あ、こんにちは。そうです、水嶋です」
そう返すと、少し笑った。
うわあ。
危うく当人を前に声をあげそうになった。
自分はミーハーな性質ではないと思っているけれど、こんな美人に微笑まれたら、誰でも嬉しくなるものだろう。男の人に『キレイ』だの『美人』だのという形容詞は当てはまらないと思っていたけれど、それは私の完全なる偏見だったとここに証明された。
ミツヤ兄ちゃんは、視線をするりと私の後ろへ流して、
「ゆめ」
シン、とロビーが静まった。
な、なんていう迫力。
怖いというか、有無を言わせずというか、美人が怒るとこんなに怖いものなのか。
空気まで固まったかのようなロビーでは、誰一人身動きひとつしない。
日吉が、私の後ろから、恐る恐る姿を出す。
ミツヤ兄ちゃんはため息を吐いて、日吉の腕を取った。日吉がひっぱられて、たたらを踏みながら私の横に並ぶ。周りの視線が、今度は日吉ひとりに集まった。
「曽木部長」
呼ぶと、あいよ、と受付け用にだろう、ロビーに設置されていた会議机から、火の点いていない煙草をくわえた女の人が立ち上がる。
「こいつ、ゆめ」
日吉がミツヤ兄ちゃんを見上げている。私も周りも、どういうことかと、ミツヤ兄ちゃんたちを見守る。
曽木部長と呼ばれた人が、で? と煙草をくわえたまま口の端を上げて笑う。
ミツヤ兄ちゃんは、ちら、と日吉を見て、
「オレの彼女」
どわっ、と、膨らんだ風船が破裂したように、周り中が声を上げた。
日吉がみるみる顔を真っ赤にさせて、ミツヤ兄ちゃんを見上げていた。美人は、不敵に笑って、日吉を見下ろしていた。
*
後日聞いたら、結局あの後家に帰ってから、こってり絞られたそうだ。
でも、まあ、別にいいじゃん。
怒られたってお釣りが来るぐらい、あんだけ惚気られたんだからさ。
end