嫌よ嫌よも好きのうち
「ゆめ、弁当は持ったか?」
テーブルから立ち上がったゆめに声をかける。
朝、7時30分を過ぎたところ。
返事がないことをいぶかしんで振り返ると、もうそこにはゆめの姿はなかった。
弁当を持って追いかけて玄関まで行くと、ゆめは靴を履いているところだった。ため息をついてその頭に弁当を載せる。
と、いきなりゆめがすごい勢いで振り向いた。
オレの顔を見た途端、さっと顔を伏せ、傍の鞄をひっつかんで玄関を飛び出していった。
あとには、転がったゆめの弁当だけが残った。
*
避けられている。
風邪をひいて、不覚にも悪化させて寝込んだのが先週の話。病明けのだるさがようやくとれてきた、あの日から三日経った今日も、ゆめに避けられてしまった。
あの翌日から、ゆめはオレの顔をまともに見ようとはしない。
避けられる理由に心当たりがないわけじゃない。
熱を出してオレが寝込んだあの日、ゆめがかいがいしく世話を焼いてくれるのが嬉しくて、オレのために苦手な料理をやってくれたのかと思ったら愛しくなって、
『さわってもいい?』
『うん。いいけど、なにを』
熱に浮かされてはいたけれど、ゆめが意味を理解していないこと、オレは判っていた。
判ってて、やった。
触れたかった。抱きしめたかった。したくてもせずに、ずっと我慢してた。
ゆめは15歳だ。
だから、16歳になるまでは待とうと思って、我慢していた。
タガが外れた、というのだろう。
熱でぼんやりした思考の中、どこかではっきりと自分がただ欲望のままに動いていることを理解していた。
そんなオレに対して、ゆめは怒っているのだろう。
怒ってる。
そうだよな、当然。
「とうとう嫌われたかなー」
口に出してみて、軽く言ったつもりだった分、ひどくショックを受けた。
*
「で、したの?」
「……してませんよ」
オレの言葉に曽木部長がカラカラと笑った。
大学の第1棟の端にある喫煙所。鎌田教授の研究室の傍の喫煙所とは違って、ちゃんと壁で区切られた部屋だ。それでも、10人もいたらいっぱいになる。やはり喫煙者の肩身は狭いらしい。
オレはため息を吐いて、
「風邪ひいて熱出して、できるわけないでしょう」
「押し倒したくせに」
「それは」
確かにそうなんだけれども。
どうしてオレはこの人にこんな相談をしているんだろう。
みゃーこさんという手もあったけれど、うっかり一臣あたりに見つかったら面倒だと思ってやめた。
『信頼できる女の人』という知人を他に持っていないんだ。
「早坂ちゃんも男だね」
オレは眉をひそめて聞き返す。
「どういう意味ですか」
曽木部長はゆっくりと煙草の煙を吐き出しながら、彼女らしい猫のような笑みを浮かべた。
「その言葉のままだよ」
オレは喫煙所の中を見回す。
窓際に立っているオレと曽木部長、そして、扉の傍にひとりと、廊下側の壁際にふたり。ちらちらとたまにこちらへ視線を向けてくるのが、なんともうっとおしい。未だにそんなに珍しがられているのか、オレは。
オレの舌打ちが聞こえたのか、曽木部長が喉を震わせて笑った。彼女が視線を向けると、さっと廊下側のふたりが顔を伏せる。さすが曽木御大か?
「この大学も広いからね」
「面がちょっと綺麗でも、しょうがないでしょう」
部長が笑ったまま、煙草を備え付けの灰皿に押し付ける。
「醜いよりはマシだろうよ」
それはそうなのだろうが。
『綺麗だ』と言われて、オレはあんまりいい気はしない。
そう言った相手が、大概オレの顔のみを指して言っていることが判るからだ。
顔が綺麗だからといって、どうなる。
オレは男だ。
芸能人になりたいわけでも、女になりたいわけでもない。
「それに」
顔を上げた。曾木部長がオレを見ていた。
「あの子には、そう言われたいだろう?」
「それは……」
オレの言葉の先をさえぎるように、部長がもう一本、煙草に火をつけた。
ため息を吐く。
今日何度目だろうか。
馬鹿馬鹿しいと思う。女々しいと思う。
昔も今も、ゆめの相手で手一杯。あの子に振り回されて、困って悩んで――喜んで。
ああ、だからか。
恋人に振り回されるなんて、自分は絶対そんなことにはならないだろう、って妙な確信が以前はあった。
そう。
ゆめ以外に、オレの心を振り回す人間がいるはずがないからだ。
そんな彼女に、
「嫌われたんですかね」
つぶやくと、曾木部長がおかしそうに笑った。
「10年以上一緒にいるんだろうに」
それでも、判らないことは多い。
実は判らないことだらけかもしれない。
ふと、曾木部長が壁から背を離した。煙草を灰皿に押し付ける。
「嫌よ嫌よも好きのうち、ってね」
曾木部長は笑いながらそう言って、ひらひらと手を振って喫煙所を出て行った。
窓の外には、もうすっかり色づいている銀杏の木が見えた。
*
会話を避けられているだけで、会うことを避けられているわけじゃない。
それが唯一の救いだ。
けれど、この空気は重い。
台所のテーブルにゆめとふたり、いつものように向かい合って座って、夕飯を食べる。
今日は親父は飲み会で遅くなるらしい。
会話のない食卓は、飯をまずくしている気がする。自分の作ったものだが。
ちら、とゆめを見ると、さっと視線を外された。
ため息を吐く。
今日何度目なのか、数えたらよかった。どれだけ自分が女々しいか、はっきりするだろう。
益体もないことをつらつらと考えてしまう。
いつもだったらゆめが喋ってくれるのだ。今日はなにがあった、今度こんなことがある、テレビがどうした、友達がどうした。
こんな風に避けられる方がよっぽど辛い。
ごちそうさま、と小さく言って、ゆめが立ち上がった。茶碗を流しに置いて、リビングの方へと行ってしまう。オレをちらとも見てくれなかった。
他人の視線はうっとおしいくせに、ゆめが視線を合わせてくれないことにへこむなんて、馬鹿らしい。
箸の進まない食事を終えて、オレもリビングへと向かう。
「ゆめ」
びくり、とゆめが肩を震わせた。
ソファの上でゆめは膝を抱えて座っている。その視線はやっぱりこちらを向くことはない。
傍に行くことすらためらわれて、オレはリビングの入り口で立ち尽くす。
テレビの音が寒々しく流れている。ゆめの視線はそのテレビへと。
なんとかこっちを見て欲しい。
でも、無理に向かせたって仕方がない。これ以上、オレはゆめに嫌われたくない。
「ごめん」
言葉を探して、探して探して、ようやく出てきたのが謝罪だなんて、情けなさ過ぎる。
それでも、オレはそれ以上言えなかった。
「……どうして謝るの」
視線はテレビに向けたまま、ゆめが言った。
その声が震えていた気がして、オレは思わずゆめの傍へ駆け寄った。
泣いていた。
「ヤだ! さわらないで!」
弾かれたように叫ばれて、ゆめの頬に触れようとした手を、オレは引っ込める。
どうして泣くんだ。
「嫌いになったのか」
やっぱりゆめはオレから顔をそむける。膝を抱えたまま、そっぽを向いてしまう。
「もう、別れたいのか」
ゆめが、オレを本当に好きだったのかすら、オレは判らなくなった。
嫌いになったんだったら、もう別れたいんだったら、はっきりそう言って欲しい。
オレを勘違いさせたままにしないでくれ。
「どうなんだ!」
思わず声を荒げていた。
驚いた顔で、ゆめが振り向く。オレから体をひくゆめを追いかけて、逃がしたくないばかりに押し倒してしまう。腕を頭の上でひとまとめにして、ソファに押し付ける。
駄目だ。
判っていながらも、自分の行動を制御できない。
こうなるのが一番嫌だったハズなのに。
「だって」
顔をそむけたまま、ゆめが言った。
ぐす、とゆめが鼻をすする。
「だって、恥ずかしかったんだもん」
ハズカシ……なんだって?
ゆめがキッとオレを睨んだ。久しぶりに、ちゃんと視線が合う。その彼女の瞳がうるんでいる。
「どんな顔したらいいのか判らなかったの!」
頭がうまく回らない。そんなオレなどお構いなしに、ゆめは言い募る。
「なのに、どうして謝るのよ。三哉兄ちゃんは、あれは間違いだったとでも言いたいの?」
別れたいのか、ってこっちのセリフよ、とゆめが怒ったようにつぶやいた。
急に力が抜けた。
ゆめの腕を押さえていた手からも、血が上った頭からも、ふにゃりと力が抜ける。
「嫌われたのかと思った」
信用ないなあ、とゆめがやっぱり怒った声のまま言った。
ふと、押し倒したままだということに気づいてオレが慌てて体を起こすと、ゆめももぞもぞとソファの上に体を起こした。そして、何故か微妙に距離をとる。
「それで、どうなの」
どう、って。
「さ、さわってどう思ったの」
……は?
「だ、だって!」
ゆめが真っ赤な顔で怒鳴る。
「だって、三兄、寝ちゃうんだもん!」
え。
ええと。
もしかして、ゆめが怒っていたのは、オレが熱に任せて好き勝手さわったことではなく――
「あたし、そんなに良くなかった?」
ゆめがうつむいてしまった。
オレは息を吐いた。ため息じゃない、大きな息。深呼吸というか、なんというか。
安堵したのと、ゆめがそんなことを考えていたのかと驚いたのと、どうしたら――いや、どうしてもいいのだろうということと。
「……さわってもいい?」
「どこを」
ちらりとオレを見て、目元を真っ赤にして憮然とゆめが言った。
ああ、確かに。
ちゃんと頭を回せば、この顔がゆめの照れ隠しだって判った。恥ずかしくてちょっと怒ってみせてただけなのだ。
「とりあえず、顔、かな」
「とりあえず?」
涙ぐらい拭いてやりたい。
いい? と訊くと、こくん、とゆめがうなずいた。
そっと頬に手を当てる。
熱い。
柔らかい頬を、涙を拭うように触れる。ゆめが瞳を閉じた。
頬から顎のラインをたどって、親指で口唇をなぞる。
その口唇にキスをする。
はあっ、とゆめが息を吐く。
「三兄……キレイ」
うるんだ瞳で、熱っぽくゆめが言う。
「なんだろ、色っぽい」
こつん、と額に額を当てて、眼を閉じる。
ゆめが言う綺麗は顔のことだけじゃないから。
「ありがとう」
言うと、ゆめがきょとんとした。
「お礼なんて言われたの、初めて」
そうだな。オレも言ったのは初めてだ。
「ゆめも、綺麗だよ」
眼を開けて、お互いを一番近くに感じて、言う。
手で覆っていたゆめの頬が、さらに熱くなった。
「そ、そんな風に言うなんて、卑怯だよ」
ゆめがじたばたと暴れて言う。
そうかな。
……そうかもな。
ゆめをそっと抱きしめて、ゆめの細い肩に頭を載せた。
「ごめんな、不安にさせて」
ことん、とゆめの頭もオレの肩に載る。
「また謝った」
むくれた声でゆめが言う。オレは少し笑って、
「これは待たせ賃」
だから先に謝っておくの、とオレが言うと、抱きしめた腕を少し緩める。顔を上げたゆめが、いぶかしげにオレを見た。
「ゆめが16歳になったらな」
end