くま
呼び鈴を鳴らして、しばらく待ってみる。
出ない。
やっぱりそうか。
ため息を吐いて、オレはズボンのポケットから鍵を取り出した。
目の前の日吉家の――ゆめの家の合鍵だ。
基本的には使いたくない。ゆめの母親ののぞみさんなんかは、『別に三哉なら構わないわよ』なんて言ってくれるけど、それでも。
理由は明白だ。
ゆめが嫌がるから。
鍵を鍵穴に差し込んで、いや、違うな、と思った。
ゆめが、嫌がる『だろう』から、だ。
最近のゆめは判らない。
性質の悪い冗談だと思い込んでいた、バレンタインデーのあの告白が真実味を帯びてきて、まさか、なんてオレに思わせる。ついこの間まではむくれっつらしか見せなかったくせに、嬉しそうにはにかんだり、傷ついて落ち込んだ顔を見せるものだから、オレは勘違いをしそうになっている。
そう、勘違いだ。
それが勘違いだって、オレは知ってる。
ホワイトデーにお返しをした。毎年恒例のことだ。
でも、今年は少しだけ違う。
ゆめが、お菓子ばっかりで太るよー、なんて毎年嘆くから、違うものを用意した。いつもは聞き流していたその文句を、今年は気にかけた。
そうして渡したお返しは、けれどやっぱりゆめの気に入るものではなかったんだろう。
差し込んだ鍵を回して、それから玄関を開ける。
「ゆめ」
中へ呼びかけるが、やっぱり返事はない。
もう一度ため息をついて、靴を脱いであがりこむ。ゆめの部屋の前で一応ノックをして、それから扉を開ける。
ベッドへ視線を向けると、どうやら起きてはいるらしい。掛け布団のふくらみが身動きした。丸まって小山になっているところを見ると、起きる努力はしたらしい。
ベッドに腰掛けて、
「ゆめ、朝だぞ」
そんなことは判ってるだろうが、呼びかける。
「……おはよー」
ゆめが掛け布団から頭を出して、ぼんやりと言った。髪の毛が哀れにぼさぼさだ。
寝汚いオレなんかよりも、普段よっぽど寝起きのいいゆめは、この数年、月に一度、二、三日だけ起きてこれない。起きてこない、じゃなくて、起きてこれない。
女の子は大変だな。
ゆめは重い方のようだし、本人の努力でなんとかなるものじゃないから、この日ばかりは労わってやらないと。
だからといって、のんびりはしてられない。
いつもはもうとっくに起きて、早坂の家に来てる時間だ。中学へ行くのに、まだ余裕はあるけど、寝かせておいてやることはできないし。
今何分になったかな。
時間を確認しようと、目覚まし時計の置いてあるヘッドボードに視線を向けた。
すぐに後悔した。
二度と見たくないものが、目覚まし時計の横にあった。
ちょこん、と、目の赤い、黒い小さなくまのぬいぐるみが座っている。それはストラップになっていて、いつもごてごてと携帯電話にストラップをつけているゆめにはいいかと思ったんだ。
そう、ホワイトデーにオレがお返しに渡したやつだ。
本の読みすぎで目の赤くなった、黒いくま。
ゆめは、くまのぬいぐるみはなんでも好きだが、これが一番好きだって言っていた。既製品のぬいぐるみでも、ひとつひとつ顔が違うんだよ、って、こっちがうんざりするぐらい時間をかけてぬいぐるみを選ぶ。
だから、オレもそうした。
バカじゃないのか。
使ってもらえもしないのに、店の買い物客のほとんどが女性で、その中に混じって一生懸命悩んで、バカだ、オレは。
朝から嫌なものを見た、と視線をそらすと、ゆめが気付いたようで、それに手を伸ばしたのが視界の隅で判った。
「みつにい、これ、ありがとう」
そうだな。
贈り主がここにいるんだ、いらないものでも、礼ぐらいは言うだろう。最近の、オレに対しても素直になったゆめなら。
あのね、とゆめがオレの制服のシャツの裾をひっぱった。
「これねえ、嬉しかったの」
「……そう」
努めてゆめを見ないようにして、言った。
だってお前、ずっと使ってなかっただろう?
いいよ今更、そんな今更オレに対して気を遣わなくってもいい。お前のオレに対する気持ちに勘違いしたあの日のオレを、オレは今殴り殺したい。
かわいいねえ、とゆめが言う。
ストラップの紐をひっぱって、くまをオレの目の前に差し出した。見たくもないものが視界に入るが、避けようもない。体をひいたオレに気付かず、ゆめは、
「でもケータイにつけると、汚れちゃうでしょ? もし失くしたりしたら、すっごくイヤだし」
……随分もっともらしく聞こえる嘘だ。
いいのに、別に。今までどおり、ゆめはオレのこと嫌いで、それでいい。元通りだ。オレが勘違いした分だけ凹むだけだ。それだけだ。
「だからね、ここ」
とんとん、と叩かれる音に、思わず視線を向ける。ゆめが、ヘッドボードの、目覚まし時計の横を手のひらで、もう一度軽く叩く。
ホワイトデーから今日まで、そういえばゆめの部屋に入ったのは初めてだ。
もしかして、オレは、本当に勘違いをしていた?
いや、それが勘違いだろ。
ゆめが分別がついてオレに対しても気を遣うようになったから、だから、……だから、だから?
「寝る前と起きるときと、帰ってきたときと、一緒にいれるでしょ? いつでもはムリでも、朝起きて、この子の顔見れると嬉しいの」
ゆめが嬉しそうに笑う。……嬉しそうに、笑っているように見える。
もし、その笑顔が嘘なんだとしたら、一体オレは何を信じればいい、って思ってしまった。
ゆめの嬉しそうな顔が、言い訳じゃなくて、本当にその理由で使わなかったのか、とオレに納得させようとする。
だってね、とゆめが、いつもオレにスキだって言うときと同じ、恥ずかしそうなはにかんだ顔で、
「この子は、三哉兄ちゃんがくれたんだぞー、って」
もしこの顔がオレを騙そうとしているんだったら、オレには絶対無理だ。勘違いしないわけがない。ゆめが、オレのことを――
「……朝飯できてるから、用意して来いよ」
バカなことを考える前に、立ち上がる。
「うん」
がんばる、と言ったゆめの頭を撫でてやりたくなって、手をきつく握り締めた。
ゆめの部屋を出るとき、しなきゃいいのに、オレは振り返った。ゆめが、大切そうに黒いくまを目覚まし時計の傍に戻した、
その横顔を、
慌てて、でも音を立てないようにゆめの部屋の扉を閉めた。
息も吐けない。
勘違いだ。
ゆめがオレを好きだなんて、勘違いだ。
オレの、ゆめ自身の勘違いなんだ。そのはずだ。
頬を、ごし、と手の甲で擦る。けれど、消えない。
踵を返して、玄関に出て靴を履いた。そうして足早にゆめの家を出て、鍵をかける。エレベーターホールでいらいらしながらエレベーターを待って、乗り込む。
もう一度、頬を擦る。
なんで消えないんだ。
頬の熱さも、目に焼きついたゆめの嬉しそうな顔も、まるで馬鹿な勘違いに鼓動を高めるオレの心臓の音も。
家に帰ったら、顔を洗おう。冷水で、なんだったら冷凍庫の氷全部を風呂の洗い桶につっこんで、洗ってやる。頭からかぶってやったっていい。
おめでたい勘違いで嬉しくなって赤くなった顔なんか、絶対ゆめには見せられない。
end