ダイキライの反対
コートの裾を引っ張られて、たたらを踏んだ。
「イヤっていったら、イヤなの! ヤー!!」
ため息をついて振り返ると、今度4歳になる愛娘のゆめが真っ赤な顔をして、あたしのベージュのコートを握り締めていた。
いや、判ってはいたんだけどね。だからここでバイバイなんだけどね。空港でこれやられたら、本当に困るもん……。
もうかれこれ30分くらいになるだろうか。うっかり乗り遅れでもしたら困るので、こーへーとよーこちゃんには先に空港へ行ってもらった。とりあえず搭乗手続きと荷物だけはこれでオッケー。
全然ダメなのは、あたし。未だマンションの部屋の玄関で立ち往生してる。
問題はゆめですよ。
「なんでいっちゃうの、ヤダ、まだいかないでしょ? ねえ、おかーさん」
ゆめが瞳を涙でうるうるさせながら、あたしを見上げている。泣き落としですか、ゆめ。こーへーならやられてしまう技だけど、あたしにはあんまり効かないわよ。
その傍では、一臣がなんとかゆめを宥めようとしている。
「ゆめ、のぞみさんは仕事だから、仕方ないんだよ」
「じゃあ、ゆめもいく。それならいいでしょう?」
「ゆめは一緒には行けないんだよ」
「どうして? なんで? どうしていっしょじゃダメなの?」
くそう、ゆめの『ダイスキ』な『一兄』ならストッパーになるかと思ったけど、全く役に立たないじゃない。ちょっと見ない間に図体ばっかりでかくなって、もう高校生だっけ? そんなんじゃ将来嫁に尻に敷かれるのがオチよ!
さっぱり見当違いの方へ心の中で八つ当たりをしながら、
「あのね、ゆめ」
ゆめがコートを離してくれないのを諦めつつ、しゃがみこむ。目線を同じにして、あたしにしてはものすごく優しそうに、
「ね、すぐ帰ってくるから。ちょっとの間だからお留守番してて」
笑ってみた。
「ウソ!」
即座にゆめが言い返す。ぷうっ、とフグみたいに頬を膨らませて、
「まえもそういったでしょ! でもちょっとじゃなかった!」
う。
くそう。必殺・母の笑顔も効かないか。
「ゆめもいっしょにいく! いくったら、いく!」
ゆめが地団太を踏みながら叫んだ。
甘やかされて、すっかりワガママに育っちゃって。どうしたもんだか。
毎回のことだけれど、やっぱり今回も心底困って、セットした髪を構わずかき回す。
出て行くところをゆめに見つかったら足止めされることは判っていて、昨日の晩から早坂の家に預けていた。今日は一臣の学校が創立記念か何かで休みだっていうし、そーっと出発すれば大丈夫、なんて軽く考えてた。
甘かったか。やはり、最強ストッパーが必要だっただろうか。無理矢理ヤツを学校休ませてれば――
「のぞみさん」
呼ばれて、振り向いた。
出た! 最強ストッパー!
エレベーターホールの方から、黒いランドセルをを背負った、美少女な三哉が歩いてくる。
「三哉、お前学校は」
一臣が問うと、ちろりと兄を見上げて、
「母さんから電話あって、早退」
ありゃ。よーこちゃん、察してくれちゃいましたか。悪いことしたなあ。
「ごめんね、三哉」
本当に申し訳なく思って両手を合わせて言う。そーた似のキレイな顔を少し横に振られる。その視線がゆめへ向く。
ほんっとうに判りやすいほど、ゆめの顔がへにゃっとなった。
さっきまでの泣き真似みたいな顔じゃない。本当に泣きそうな顔。
三哉がため息をついて、
「ゆめ」
名前を呼んだ。
途端、ぶわっ、とゆめの目から涙がこぼれ出た。ゆめの手が、あたしのコートから離れる。
あらー。毎度のことだけど、鶴の一声だわ。
あたしの視線に気づいたのか、三哉が見上げてきて、
「大丈夫です。見てますから、行ってください」
ほとんど表情を動かさない子供らしくない物言いで、言った。
あたしは、助かった、とその肩をぽんと叩いて小走りに歩き出した。ゆめに、じゃあね、と手を振るけれど、もうこっちを見ていない。一臣に抱きついてわんわん泣いている。
「みつにいなんて、ダイっキライ!」
閉まるエレベーターの隙間から、叫ぶゆめの声が聞こえた。
*
鶴の登場のおかげで、予想より1時間以上早く空港に到着した。おかげで、カフェでのんびりお茶でもできるってもんよ。
「三哉、よーこちゃんにそっくり」
コーヒーをすすりながら、あたしは言った。
目の前の席のいつも変わらずカッコイイよーこちゃんは、目を丸くして、
「不思議、颯太くんと同じこと言うのね」
と言った。
「他の人はそんなこと全然言わないのに。あ、細川には言われたかな」
細川って拓司氏か。お寺さんの。
隣りの席のこーへーは、ぼんやりと窓の外の飛行機たちを見てる。ゆめのことでも思い出して、切なくなっているんだろう。まあ、こいつも先に空港へやって正解。
よーこちゃんが、少し考えてから首を傾げて訊いてきた。
「どこが似てるのかな?」
「好きなくせに、嫌われたくないくせに、それでも平気です、って顔するところ」
即答してやる。
そうしたら、よーこちゃん、苦虫を噛みつぶしたような顔をして、
「……それは図星だわ」
そうして笑った。
「なんであんなに懐いてるかなー」
ぼんやり言うと、誰に、とよーこちゃんに問われた。それはもちろん、
「三哉にだろう」
こーへー、突然話に入ってこないでよ。
「やっぱりあれは、懐いている、で合ってるのね」
よーこちゃんが変に納得してうなずく。それじゃ『懐いてる』以外なんて言うんだ、あのゆめの状態を。
よーこちゃんは眉尻を下げて、
「三哉、ゆめちゃんに嫌われてると思ってるから」
ああもう、つくづく、似たもの母子だなあ。
三哉は、なまじ顔がそーたにそっくりなもんだから、行動まで似てるように感じることも多いけど、こういう要所要所が、よーこちゃんにそっくり。
「本当に嫌ってたら、三哉が登場したぐらいで、ゆめが言うこと聞くかっての」
母親のあたしよりも効力があるっていうのが、気に入らないわ。
ずずっ、と行儀悪く音を立ててコーヒーをすする。
よーこちゃんはちょっと肩を竦めて、
「それも、自分のことを嫌ってるからだ、って思ってるみたいよ」
……その、自分に自信がないところまで、そっくりなのはどうなの。よーこちゃんと三哉、気質が似てるんだわ、きっと。
ゆめが『ダイキライ』と言うのは、三哉にだけだ。それ以外、あたしは聞いたことがない。
あの子は好き嫌いが妙にハッキリしている。
『ダイスキ』か『ダイキライ』か。
どうでもいいものは、最初から眼中にないのだ。
そう、だから。
キライ、って言うのは本当は嫌われたくないからだった。
あたしに対して『いかないで』と言うのと、三哉に対して『ダイキライ』と言うのと、同じ響きに聞こえるのは、あたしだけだろうか?
こーへーが腕時計を見た。と、同時にあたしたちが乗る便の案内の放送がかかった。
「さて、行きますか」
立ち上がって、会計を支払ってカフェを出た。
「じゃあ」
言うと、よーこちゃんが、うん、と頷いた。そして、
「のぞみさん、航平さん、いってらっしゃい」
笑って手を振ってくれるので、
「うん、いってきます」
あたしも笑って手を振り返した。
次に会えるのは、また半年から一年後。でも、バイバイ、じゃなくて、いってきます。そして――お帰りなさい。
よーこちゃんと別れて、飛行機に乗って、ふと言いたくなってあたしはこーへーを見た。こーへーが気づいて、あたしを見る。
「ねえ、知ってる?」
きっと三哉は知らないんだろうけど、
「『ダイキライ』の反対は、『ダイスキ』しかないんだよ」
end