欲しい言葉
「産んで」
真っ先にそう言ってくれたのは、よーこちゃんだけだった。
*
「子供ができた」
事務所のこーへーのデスクの真ん前で仁王立ちして、あたしは言い放った。
こーへーは、図体のでかい体をちょこんと椅子に収めて、あたしをポカンと見上げた。そのバカっつらが、わんこみたいなんだっていうのよ。
反応を待つ。
1秒2秒と数えて、そんなのを数えるのがバカらしくなって、あたしは乱暴に言い放った。
「堕ろすよ。いいね」
ようやくこーへーがデスクから立ち上がった。
こーへーのデスクの隣りに座っている、年を食っても相変わらず美人なまんまのそーたが、いつも通り笑った。
「今産まないと、もう産むタイミングなくなっちゃうよ」
さらりと、女でもなかなか言いにくいことを言いやがる。
あたしは顎を反り上げて、あたしより頭2つ分でかいこーへーを睨みつけた。
「結構よ。子供なんていらないわ」
呆然とするこーへーを尻目に、あたしは踵を返して社長のデスクへと行く。社員人数の少ない事務所だから、同じ部屋に社長のデスクがある。今の話は筒抜けだ。もちろん他の社員や事務員にもだけど、知ったことじゃない。
社長の目の前まで行って、その生真面目そうな顔を見る。つくづく似てない親子だな、とそーたの顔と比較して思った。
「出勤予定日だった日を全部、有休にさせていただいても大丈夫でしょうか」
そもそも今日だって有休をとっていたのだ。
あたしは今月締めでこの早坂建築設計事務所を依願退職する。兼ねてからの予定通り、フリーの建築デザイナーとして活動していくのだ。
そんな直前に、冗談じゃない。
冗談じゃないわ。
「のぞみ君」
持ち前の低い声で、社長は言った。
白髪混じりの髪をなでつけた頭は、几帳面そうだ。薄いフレームの眼鏡も、なんだか出来る男を気取っていて気に入らない。でも何が一番嫌かっていうと、本当に仕事ができることだ。あたしがフリーになった後も、この社長には世話を掛け続けてしまうことだろう。悔しいが、実力も実績も人脈もある人間なのだ。
「残務処理が完了しているならば事務に申請すればいい。会社に迷惑を掛けないのであれば、どうしようと構わない」
ちらり、と息子の昔なじみを心配するような気配を見せて、社長が言った。
珍しいと思ったけど、そんなこと気にしない。
あたしは頭を下げて事務のデスクへと足を向けた。こーへーは、まだ自分のデスクで立ち尽くしている。
*
電車に揺られると気分が悪くなることは今朝体験済みで、代わりにタクシーを捕まえた。他人ひとり体の中にいるぐらいで、随分面倒なことになるものだ。早くさっぱりすっきりさせたい。
タクシーの後部座席に乗り込んで、行き先を告げた。今朝行ったばかりの病院だ。真昼間の平日の道は空いていて、10分程度で病院に着いた。
と、目の前の自動ドアから、女性が出てきた。
お腹をぽっこりと膨らませた女性だ。傍目にも判るのだから、もう産み月も近いのだろう。大事そうにお腹をかかえて、嬉しそうに頬をゆるまている。うららかな晴天の日差しが、そこに天使を連れてきているようだった。
その幸せそうな雰囲気が通り過ぎるまで、あたしは何故か、その場に立ち尽くしていた。
自分の腹をなでる。
『四ヶ月目ですね』
今朝、医者に言われた言葉だ。
元々、生理は不順な方だった。高校生の頃が一番ひどくて半年来ないこともあった。二ヶ月前に今の事務所に退職届を出して、その後は事後処理に追われた。フリーになるための準備もあった。生理が来ないことを気にしている余裕なんかなかった。いつものことだと、自分の中で片付けてた。
堕胎。
中絶。
そうだ。するのだ。なにも若い生娘のような女の子がするんじゃない。30歳もとおに過ぎた仕事に命かけてる女が子供を堕ろすぐらい、なんだっていうのだ。
なのに、チラつく。
さっきの幸せそうな妊婦が、頭の中をチラつく。
『四ヶ月目ですね』なんて言葉に、女か男か、咄嗟に考えてしまった自分がチラつく。
即座に、堕ろします、と言えなかった自分がチラつく。
そうだ。この期に及んで、あたしは迷っているのだ。
だから、休みだというのに、病院からタクシーを使ってわざわざ事務所まで行って、こーへーに言ったのだ。
なんと言って欲しくて?
あたしは踵を返して、再びタクシーを捕まえた。
*
玄関を開けたよーこちゃんに開口一番、子供ができた、と告げたら、向こうも即座に一言だった。
「産んで」
それだけで、同じ女なのにあんまりにもカッコ良いよーこちゃんに惚れ直しそうになってしまった。
しかし、『おめでとう』じゃなく『産んで』とは、あたしの思考も読まれすぎているなあ。
早坂家は、やっぱりベビーミルクの香りがする。末っ子の三哉だってもう4歳になるのに、どうしてだろう。優しくて甘いにおいだ。そして、そんなこの家があたしは好きで仕方がないのだ。
リビングの床に座り込んで、ソファに寄りかかる。冷えるよ、と言ってよーこちゃんが座布団をくれた。テーブルの上の湯気をたてているお茶を、あたしはぼんやりと見た。
「カフェインは平気なんだっけ」
無意識にそんな言葉が口から滑り落ちる。
「でも、コーヒーの量は減らそうね」
あたしと同じように床によーこちゃんが座る。隣りに来たその体温に、あたしは思わず擦り寄ってしまう。
「堕ろさなきゃー」
うめくような声が出た。
その声は、まるで自分で自分に脅迫しているカンジがする。
「のぞみさん、結婚してるでしょ」
ええしてますね。こーへーと5年ほど前に結婚いたしました。と言ってもお互いの両親がうるさいから籍を入れただけで、同棲していたときと何ひとつ変わっていないんだけど。
「法的にも世間的にも、のぞみさんが子供を産むのは許されることでしょ」
でも、それをあたしが許さない。
元々産む気も育てる気もないあたしなんかのところへ、最悪のタイミングでやってこなくてもいいじゃないか、キミ。
あたしは自分のお腹へとうらめしく視線を送る。
「私が育ててあげる。だから産んでよ、のぞみさん」
よーこちゃんが笑う。
11歳の子供と7歳の子供と4歳の子供がいる、母親が笑う。強いなあ、と思う。
21歳だった彼女は、どうやって子供を生むことを決意したのだろう。そーたは結婚するタイプじゃないと思ってた。実際、ふたりは俗に言うできちゃった婚であるし。
あの頃のふたりの姿は本当に歪んで見えた。どこかで絶対泣いているのに、そーたの前でもあたしの前でも泣かなかったよーこちゃんが、あたしは愛しくて愛しくて仕方がなかった。あたしが男だったら、そーたなんか簀巻きにしてドラム缶に詰めて太平洋に流してやった後、奪い去ってやったのに。
子供を産んで幸せになっていくよーこちゃんを見ながら、子供なんて絶対に産むもんか、と思ったのも、今思えば、よーこちゃんを子供という鎖で縛り付けたそーたが憎かったからかもしれない。
女の子がいいな、とよーこちゃんが言った。
「うち、男の子ばっかりだから、女の子がいいな。のぞみさんの子供だもん。絶対可愛いよ」
そう言うあなたが可愛いです。
間違いなく嬉しくて、あたしはよーこちゃんの肩に顔をうずめた。
涙が出た。
よーこちゃんの言葉は、あたしの望んだ言葉じゃなかった。なのに、どうしてこんな気分になるんだろう。どうして、一番欲しかった言葉のように思えるんだろう。
「あたし、結婚するならよーこちゃんとが良かった」
それは光栄です、とよーこちゃんが笑った。
「でも残念。私の好きな人は、後にも先にも颯太くんだけなの」
コンチクショウ、と眼をこすりながら、あたしは悪態をついた。やはり、あんな顔だけきれいな根性悪に取られる前にかっさらっておくべきだった。
そう考えながら、頭に浮かぶ顔は、途方に暮れたようなわんこの顔をしていた、こーへーだった。
*
夜遅く、日付も変わってから、こーへーはやってきた。
あたしは往生際悪く、早坂家のリビングでぐずぐず言っていたのだ。
帰ってきてあたしを見たそーたは、一言、邪魔、と言ったけれど、帰る気にはなれなかった。自分の家に帰って、おとなしくこーへーを待っていられる自信がなかった。
早坂家のガキどもからよーこちゃんを奪って、ずっと傍にいてもらった。ガキどもはあたしのそんな様子には慣れたものだから、おやすみなさい、と言ってさっさと寝てしまった。ここんちのガキは、聞き訳が良すぎて気持ちが悪いよ、よーこちゃん。
「颯太くんの子供だからね」
なに、それはノロケ? 拗ねるよ。
そんなとき、チャイムが鳴った。ためらいがちに一度だけ。それで誰だか判るあたしもあたしだ。
よーこちゃんが、ちら、とあたしを見て、インターホンに答えた。ぱたぱたと玄関へ行き、間もなく鍵を開ける音、扉が開く音。
あたしはよーこちゃんの代わりにクッションを抱きしめて、リビングのドアに背を向けていた。
傍によーこちゃんがやってきて、逃げたくなったら寝室においで、と囁いてくれた。やっぱり彼女はカッコ良い。
よーこちゃんがリビングを出て行って、二人きりになってしまった。
あたしはやっぱり待った。
ドアのところに、でっかいわんこのこーへーが立っているのを判っていて、待った。
ちくしょう。泣きそうだった。
こーへーの何度目かの大きな深呼吸の後、ようやく声が発せられた。
「産んで欲しい、と言ったら迷惑なのか」
びくり、とあたしは肩を震わせた。
「のぞみが仕事を大事にしたいのは判る。今、大変な時期なのも判ってる。それでも、産んで欲しいと言ってはいけないか」
いつも、欲しいときにはまったく足りないこーへーの言葉が、やっとあたしに届いた。
今なんて?
なんて言ったの。
「聞こえない」
あたしは怒鳴った。
「聞こえない!」
「俺の子を産んでくれ」
あたしは振り向いた。涙で顔がぐしゃぐしゃだったけど、体を起こして、抱きとめてくれるこーへーに飛び込んだ。
仕方ないなあ。
こーへーはでっかい捨てわんこなの。昔からずっとそう。そして、あたしはそんなあんたを見つけると、拾ってやらないと気がすまないんだわ。
ほら。
涙でおぼろげな視界の向こうに、不安で耳を垂れさせたご主人さまの命令を待ってるわんこがいる。真っ黒のわんこの眼が、あたしを見てる。
「女の子がいい」
こーへーが眼を瞬いた。あたしは繰り返した。
「女の子がいい。そう思うでしょ?」
あたしは笑った。
本当仕方ない。
あたしの本当に欲しい言葉は、こーへーの『産んでくれ』だったんだから。
「産んでやる」
end